芥川龍之介の『ミカン』と朱自清の『後姿』について ——ミカンをめぐって

 2022-01-19 11:01

目         次

一 はじめに 1

二 ミカン━━暖かい感情の象徴 2

三 善と悪━━人性に対する見方の違い 2

四 戦争時代に置ける両作者の闘い 7

五 終わりに 7

致 谢 10

朱自清の『後姿』と芥川龍之介の『ミカン』について

——ミカンをめぐって

段磊 20131322030

要旨:朱自清の『後姿』の中で、作者はホームを越えてミカンを買ってくれた父親の行為に感動された。なお、芥川龍之介の文章『ミカン』の中、作者は娘が列車の窓口に見送りに来た弟たちに金色のミカンを捨てることを見て、心が感動した。ミカンは明るい色をして、暖かい感情を象徴する。ところが、読者は両作品から感じ取った感情は同じではないようだ。その上、本稿を通じて、作者の感情や考えについて検討することを目的として論じていくことにしよう。

キーワード:芥川龍之介;朱自清;ミカン;感情;異同  

一 はじめに

親心を描くため、作者たちはいろいろな方法がある。ものを借りて、自分の感情を注ぐことはよく見られる。朱自清は親子の深い愛を表す『後姿』の中に、ホームを越えてミカンを買ってくれた父親の行為を描く。芥川龍之介の文章『ミカン』の中、小娘が列車の窓口に見送りに来た弟たちに金色のミカンを捨てることを描き、姉弟の家族愛を書き出す。朱自清と芥川龍之介は同じものを選択した——ミカン。ミカンというイメージが、日常的で普通なものである。しかし、この二人のマスターの筆の下で、ミカンは特殊な意味を与えられ、もっと感情の象徴、人と人との繋がりになった。人間の最高の感情の画面を読者の前に広げてくれた。私の調査では、両文を比較する研究はまだないようだ。両作者はどうしてミカンを選ぶのか、どのような感情を含むのか、その上、何を伝えたいのか、本稿はそれらについて研究するつもりだ。

二 ミカン━━暖かい感情の象徴

 『後姿』は1925年、朱自清が八年前のことを追憶して書かれた。作者は当時北京大学で勉強し、祖母が亡くなったことを知り、北京から徐州に駆けつけて、父親と一緒に揚州へ葬式をした。葬儀が終わって、父が南京へ仕事を探して、作者は北京に帰って勉強して、親子が浦口で別れた。あの時、作者と父親は矛盾があるので、冷戦状態だった 。それにしても、父親は苦労を厭わずに、作者にミカンを買いあげた。「再び外で見たら、彼はもう赤々としたミカンを抱え込みながらこちらに向かって戻ろうとしている。」1作者は地味な文字を使って、父親は子供の愛に対して、深く言い表す。平凡な事件の中から、父親の心配と愛護を言い出す。

 同じ事は他にもある。芥川龍之介はミカンについて文も出た。この文は1919年に出来上がった。芥川は一回の旅の中で、隣のある貧しい娘と会った。必死に窓口を開けたがる彼女に嫌いになった。しかし、娘が列車の窓口に見送りに来た弟たちに金色のミカンを捨てることを見ると、作者の感慨を生み出した。思わずに「さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。」2を感じた。

 息子にホームを越えてミカンを買う父親にせよ、弟たちにミカンを捨てる女の子にせよ、読者に暖かい感情を伝える。ミカンは人と人の繋がりとして、暖かい感情を含む。

三 善と悪━━人性に対する見方の違い

両作者も小さなミカンを選び、読者たちに感情を伝える。どうして小さなものを借りるのか。これは作者たちの個人性格と成長環境にかかると思う。また、それは違う人性観の構築について深い影響があると思う。

1 朱自清と『後姿』

朱自清は官吏の家に育つ。朱自清は子供時代から私塾で勉強するので、中国伝統的な文化に深く影響された。父親は彼の学業にとても厳しい。父親厳格な督催下に、朱自清は古い詩文と歴史方面に堅実な基礎を打ち立てて、厚い文化素養を持っていた。1916年、朱自清は北京大学に入って、哲学を学習した。この頃から新詩を書き始める。

 この文は1925年、朱自清が八年前のことを追憶して書かれた。父親が失業後、借金しなければ生きていけなかった。「利子も支払うことができないから、皆さんは借金もしたがらない。しかも、本金を返せって言われた。」3それだけでなく、父の封建的な思想は朱自清の先進的な思想がしっくりしない。いくつかの原因に加えて、二人の関係がよくなかった。しかし、朱自清は北京に戻る時、父親は自ら彼を送ることに決めた。「父は太っているもので、鉄道を渡るのにかなり时间がかかってしまう。そこで、やはり私が行くと彼に言ったけれど、断られてしかたがないので、彼に行ってもらった。」

編集長孫玉石は『中国現代の随筆の八マスター』の中で朱自清をこのように評価して:「彼は濃厚な詩人気質を持っている。人に随筆の中に詩の境地と蓄積の力量をよく感じられる。」5確かに、彼は地味な言葉で文を書く。小さなものに感情を与えるのは唐突ではない良さがある。直接自分の感情を言い出すのは中身がないという感じがあるかもしれない。読者にとって、よく理解できる前提は現実感というものである。ミカンは現実でよく見られるものだから、読者との距離を縮められる。『後姿』の中、離別した間近いことのこの特定の環境に、父親は依然として苦労を厭わなくて、息子にミカンを買いに行った。息子はその背後を眺めて、自然的に、この後姿がいつもよりのを感動をさせると感じる。父親はミカンを買う経過、特に鉄道を通る時を書いた。普段誰でもできるような動作であるが、ただ父親にとって、プラットフォームを越えるのは決して容易ではないことだ。作者は自分の真摯な感情とものを語ることと簡単に集まることではなく、気持ちと事をぴったり合うことだ。自分の衷情を書く。

2 芥川龍之介と『ミカン』

芥川龍之介は明治二十五年、芝に生れた。彼の実母は、彼の語るところによれば、狂人だったということである。彼の短篇『點鬼簿』にはその実母の肖像が生々しく描かれている。『點鬼簿』は彼の晩年の暗澹たる諸作品の先驅をなしたものだ。彼は非常にひどい神經衰弱の中で、この作品を書いた。彼はこの作品を書きながら、幾度か、その母の「少しも生氣のない、灰色をしている」6顏を思ひ浮べた事だ。彼はその頃よく、神經衰弱のひどい時なぞ、母から暗示を受けて、「僕も気狂になるのではないかしら」7と恐怖していた位だつた。彼を生んだ母が、彼の中に、何よりも先に、そういう暗い影を投げていたのである。生後七ヵ月後頃に母フクが精神に異常をきたしたため、東京市本所区小泉町にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母フキに養育される。11歳の時に母が亡くなり、翌年に叔父芥川道章の養子となり芥川姓を名乗ることになった。旧家の士族芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕え雑用、茶の湯を担当したお数寄屋坊主の家である。家中が芸術・演芸を愛好し江戸の文人的趣味が残っていた。芥川龍之介は不幸な家族で育てられたと言ってもいいだが、時代の原因でそれは一言で言えないことだ。芥川龍之介の時代は日本が伝統から現代へ変わった時代。彼の本に対する情熱は、小学校時代から始まっていた。彼は本の上に何度も笑ったり泣いたりした。学校では、彼は早熟な、光彩ある学生だった。彼は中学時期から西洋の文学論と接触し始めて、西洋の現代の文学思潮は彼に必ず影響を生じた。そして彼はあらゆるものを本の中に学んだ。少くとも本に負ふところの全然ないものは一つもなかった。彼はさらに世紀末の歐羅巴の産んだ小説や戲曲を読んだのだった。深く懐疑論、厭世主義、世紀末文学を影響された。「僕は彼の個々の作品論に入る前に、先づ、當時の文壇が如何なる氣運の下にあつたかを見たいと思ふのである。その頃まで日本の文壇を主宰してゐた自然主義の勢力も漸く衰へて行つて、若い作家たちの間には、二つの反動が起つてゐたのである。その一つは永井荷風、谷崎潤一郎等を中心人物とした所謂唯美主義の運動である。そのもう一つは武者小路實篤によつて代表される所謂人道主義運動である。その兩者とも反自然主義的な傾向を持つてゐる事に於いては相似てゐる。しかし、前者が自然主義の「眞」の崇拜に對するに「美」の崇拜を以つて起つたのに反し、後者は自然主義の「眞」の崇拜に對するに「善」の崇拜を以つて起つたのである。此處に注意すべき事は、自然主義と唯美主義とは、その物質主義的な人生觀から云ふと、何處か一味の相通ずる所がある。が、人道主義はその理想主義的な人生觀を以て、はつきり自然主義と区別される。と同時に又、人道主義はその無技巧的なところから見ると、一方唯美主義が技巧的方面でははつきり自然主義から區別されるのに反し、寧、ずつと自然主義に近かつたと言はなければならない。」8芥川の小説の中で出て来た分裂した宗教、死亡、人間性の矛盾と態度が彼の懐疑論の傾向を表した。世界戦争のせいで、経済不景気だけでなく、国内の階級矛盾も鋭い。『ミカン』はこの時期に書かれた。『ミカン』は芥川龍之介の暗い文学の空が一つひときわ美しいの放物線を加えられるというコメントがある。確かに、彼の以前の作品と違って、この文章中に温情が満ちている。娘は列車の窓口に見送りに来た弟たちに金色のミカンを捨てる場面が、読者に深い印象を残っている。金色のミカンは、人間の善意を含める。弱くても、感動させる。また、小さなミカンと重い雰囲気と比べれば、衝撃が激しい。

3 ミカンによる両作者の違う見方

 朱自清は父親が自分にミカンを買うことを機会して、親子の和解を達成する。1925年、朱自清は父親から手紙をもらった。「私の身体は無事だが、ただ腕は痛んですごくて、箸を引き上げや筆を提げても不便で、およそ行った日は遠くない。」9この手紙は朱自清に刺激を与えて、八年前父親と離別の情景を思い出して、涙を含んでいて、『後姿』を書き出した。「文に書いた親子の情は平凡だが、実感がこもっていてこころを打たれて、涙を誘われる。」10朱自清は父親の過ちを許してあげた。それは当然だと思う。こういう時、どんなに大きな過ちにしても、子として、和解を達成するのは唯一の選択だ。しかし、父と子の矛盾はなくなったという意味ではない。実際、この二人の矛盾が調和できないものだ。父親の観念は封建的で、古くて、くらい時代の圧迫の果実だ。朱自清は時代改革の波に乗って、先進的な思想を受け入れた。誰にとっても、相手の意見や思想は理解できないことだ。あの時期の中国社会の状況は軍閥が割拠し、帝国主義勢力が陰に陽にたたかって、知識人の情勢が緊迫し、広大な人民が涂炭の苦しみにいる。北京大学は五四新文化運動の中心で、朱自清は五四運動の影響を受けて、一切封建的な「かなめよく倫理」、封建的な家庭が最悪の種を非難して、個性解放を呼びかけ、封建的な専制と封建的の倫理の束縛を抜け出して、人格独立解放の新しい思想を持っていた。この背景に、作者が真摯に人を感動させて深い父子の愛を書き出して、民族倫理や伝統的な道徳が一致する。その上、悪運や薄い時世に抗争することを含める。 その暗い社会に、この中流家庭は、天災と人災の攻撃に耐えることができないことを現れる。しかも、朱自清は小さい時から中国の伝統的な文化を学び、その文化が孝は百行の本という理念があるから、父親が病気になったから、朱自清はこういう選択を決める。

 深く味わって、芥川龍之介は人間性のよさと道徳の力を描写している時に依然として悲観主義の態度を現し出した。作者はそう言って、「僅に忘れる」11、しかし、その忘れることが一時的な、瞬間なことである。人生の疲労と倦怠は根本から解決できないからだ。「あひかはらず皸だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱へた手に、しつかりと三等切符を握っている」12。この疲労と倦怠と小娘の運命が同じものだと暗示して、変えられないことである。小説の中で、ミカンはうれしい金色であるが、それはあまり小さすぎて、世の暗い隅を照らすことができない。わかりやすいことだ。戦争時代を背景に、芥川龍之介はひどい目に遭った。この娘は黒い世界に微かな光を灯している。あのときの芥川龍之介は人性の善を信じ始めた。戦争で混乱していた時代に、誰も自分のことで手いっぱいの時期、こんなに純粋な娘がいるなんて、不思議な存在だ。しかし、彼女はただまずしい人間だ。善を持つ彼女は何もできない。この小さな光はすぐに暗闇に併呑する。戦争はまだ続いていて、貧しい生活も変えられない。善の火種は暗闇に包んで、一瞬で消えてしまった。

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