伝統文化の保護における国民の力への考察-和服の発展を中心に

 2022-01-19 11:01

目次

一 はじめに............................................1

二 和服の発展について..................................3

三 和服が発達する理由................................. .8

四 伝統文化保護への啓示...............................11

五 終わりに............................................13 摘要....................................................16

致謝....................................................17

伝統文化の保護における国民の力への考察

――和服の発展を中心に

王世琪 20141322005

要旨:今の時代において、世界から愛され、尊敬される国となるために、軍事力や経済力といった強制や報酬ではなく、文化力というソフトパワーを高めることがカギとなる。特に、伝統文化は国民の生活豊かにするだけではなく、国民の統一化を呼びかけ、国民の集団力を向上させ、国民の創造力を引き出す重要な手段となる。日本は伝統文化の保護と振興において豊かな経験を重ねてきた。中国は自分の伝統文化の保護と復興を図るために、他国の成功たる経験を学ばなければならない。日本語科の学生として、日本語だけだはなく、日本社会や日本文化などの知識も身につけなければならない。本文は和服の発展に焦点を当てて考察するものである。まず、和服の発展状況について詳らかに考察し、和服発展の背後にある社会的、文化的、人的原因を指摘したうえで、国民力の重要性を強調しようとする。その上、我が国の伝統文化の保護と復興への示唆をまとめる。

    キーワード:和服;伝統文化;国民の力;啓示

一 はじめに

現在、世界の国の間に、経済戦争が存在し限らなくで、文化戦争も存在している。中国を例にとして、中国地域は広く、歴史は悠久で、文化はこの古い大河の流域で育まれて発展した。四大文明国の一つとして今まで伝わってきた国であり、その文化は奥深い。しかし、1840年のアヘン戦争以来、外国文化が大量に中国市場を占拠し、中国文化が深刻な打撃を受け始めた。現在、中国人は外国の文化を高く評価し、自分の文化を批判する。国产ドラマよりは、若者が韩流ドラマやアメリカドラマや日本ドラマなどを见ることが好き。この不正常的な現象が続けば、深刻な影響が生じると思う。

文化はとても広い人文の意味する概念を備えるので、簡単な文化は地区の人類の生活の要素の形態の総称と思う。文化のこの概念に対して、人類はずっとみんなの意見が一様でありません。しかし、文化は政治、経済に比べて、人類の全部の精神と行動の製品ということが東方と西方の研究者の共通の意見である。

 文化の発生及び発展において、国民が最大の貢献をしました。国民は自分日常の服装、食、住、交通から、いろいろな文化を創造しました。その後、生活水準の向上により、国民は文化を改良し、文化を自分の生活により良いサービスを提供させる。それで、人々が文化を創造し発展させていく過程から、伝統文化をより良く保護できる。

日本は、中国の近隣として、中国に経験を教えることができる。日本の文化といえば、先に和服のことを思い出す。和服は出現から今まで数千年の歴史がある。現在、日本の名刺としての和服は世界に知られている。和服の発展から、中国の伝統文化を良く発展させる経験を了解する。日本の国民の努力から、私たちは伝統文化を保護ために何をすることが了解することができる。

和服がいまだに流行っている原因について、国内外の多くの専門家が研究したことがある。梁惠娥の『日本承扬传统服饰文化模式及其启示』は法律と社会の教育と伝統文化自身の改良が重要な方面を提出する。朱晓春の『从传统走向现代の日本和服』は若者考え方の進歩と和服自身の改良が必要だと思う。藤井志保の『中学校技術・家庭 家庭分野における衣生活文化の題材開発-浴衣の体験による効果の検証』に浴衣の体験を通して、学生が和服を良く了解できる。豊田幸子と山本寿子の『和服着装に関する研究 浴衣と帯の利用について』は現代の衣生活において、和服の着装は日常着から儀式や趣味的な着用へと変化ている観点を提出する。これまでの研究のおいて、伝統文化の発展に関する政策と社会の宣伝と国民の民族自信は全部な理由である。

国民の力について、国内外の専門家も研究したことがある。例えば、李冬木の『国民性一詞在日本』は国民性がある国の国民たちの共通の価値観や行動様式や気質などを提出する。宋宪晴の『城市非物质文化遗产保护中我们的角色』はもし国民が自分の文化が大切にしない、守らない、伝承しないで、文化は最終的には中断と消滅になる観点を提出する。この作家も伝統文化を良く伝承するために、国民は自分の考え水準を高めなければならない観点を提出する

本文は和服の発展に焦点を当てて考察するものである。まず、和服の発展状況について詳らかに考察し、和服発展の背後にある社会的、文化的、人的原因を指摘したうえで、国民力の重要性を強調しようとする。その上、我が国の伝統文化の保護と復興への示唆をまとめる。

二 和服の発展について

1 和服の誕生

最初の日本衣装は図1の「贯頭衣」と呼ばれた女装と、図2の「横断幕」と呼ばれる男装。「贯頭衣」とは、布に穴を掘るだけで、胳膊下の布がロープで縛られる。スカートのような下着を着て、とても実用的だった。「横断幕」というのは、切られていない布を体に囲み、まるで坊主の袈裟のように右肩を出していた。

図1 贯頭衣 図2 横断幕

 日本人は和服を「呉服」ともいう。呉服という言葉は中国の三国时代に生まれ、东呉は日本に频繁な商业活动を持っていて、织物や衣服の缝制方法を日本に伝わった。『日本书记』には、呉国が日本天皇の要请を受けて、4人の織物縫製技術専門家を日本に派遣していたことが记されている。呉国は海上シルクロードを開設し、日本、ベトナム、ローマとの直接貿易を行った。それで、日本の「和服」は「呉服」とも呼ばれた。この原因で、呉服の大部分は絹でできている。日本の庶民の和服は呉国からの裁縫方法の影响を深く受ける。鎌倉時代から貴族や武者が家で呉服を着ていたが、室町時代から上層階の貴族たちが呉服を着始めた。江戸時代から呉服の様式は、今日の和服との差が非常に小さい。现代の日本人は「和服」という言葉を受け取っていますが、多くの和服を売る店は今もやはり「呉服屋」と呼ばれている。 

2 和服の適時性

奈良时代は中国の盛唐时期、日本は多くの学者、僧侣が中国で勉强しました。これらの遣唐使は唐代文化、芸術、律令、制度を日本に持ち込んだ。「衣服令」は、奈良时代が唐を模倣するために制定した制度である。「衣服令」は、礼服や朝服や制服を定めている。着る人の身分、官職の高低、参加する場会などによって、服装が違う。朝服は帽子を含んで、官職の等級によって区別する。制服は無官職の職員の服装で、業種別に分類する。例えば、図3は二位文官が朝賀や即位などの儀式に着ていた礼服。図4は六位武官の朝服。

              

       図3 二位文官の朝服               図4 六位武官の朝服

平安時代になると、国風が盛んに行われるため、日本の和服はだんだん外来の影響を抜け出す。贅沢なと精致な特色を発展しだして、服の色も多様化になり、袖も寛大な方向に発展する。平安時代初期には、中日の付き合いは依然としてとても緊密で、中国文化が日本の服装にも大きな影响を与えていた。しかし、894年に菅原道真の运営の下で遣唐使が廃止され、中日の付き合いを中断して、和服の発展が日本自身の文化に帰ったのを始めて、中国の衣装とは日本の独特な風格を確立し始めた。特に女性の服では、礼服と朝服が近づいている。このときは、奈良時代の簡単な礼服(図5)に比べて豪華な「十二単」(図6)と呼ばれる朝服が現れました。

               

   図5 奈良時代の女性の礼服                 図6 十二単

 鎌仓时代は、武士を中心にした时代。服装は簡単的、素朴的になり、さらに活動に便利になる。平安時代に便着として直衣として正装になった。十二単は5枚の衣を重ねた五枚の衣になり、侍の狩衣と水干は正装になっていた(図7)。もともと中国の服のズボンと裳は省くことができて、袖口は縮小し始めて、今和服の原形の小袖を形成する。女子の和服も簡単化になり、上流の女子の外出する標準の服装は笠に下りのカーテンに加えて、髪の毛を整えてよくて、簡単で結ぶ(図8)。

           

    図7 狩姿の武士                 図8 外出の女性

室町時代、小袖という和服が人々に広く普及している。小袖のような和服も現代和服の原型である。室町時代には、オランダ人とポルトガル人が来日して貿易を発展させた関係であり、プリント、ベルベットやサテンといった様々な織物が日本に輸出され、日本の紡績業に大きな発展をもたらした。男性は大柄の袴が流行し、武士は平常着ている直垂が正装になり(図9)、裾が長袴になる。女性の小袖は正式的な服になる(図10)。

           

     図9 直垂を着ている武士           図10 小袖を着ている女性

安土桃山時代の服装の種別は、前代とは違っていませんが、小袖はこの時期に大きく変化しており、直垂、大紋や素服も元の普通の武士の服装から重要な礼服になり、武士は普段は肩衣と袴、あるいは羽織と袴の組み合わせを着て(図11)、婦人は小袖を着ている(図12)。

             

    図11 肩衣と袴を着ている武士           図12 打掛を着ている女性

江戸時代、和服の色調が明快で、多く金糸で作た華美的な小袖が流行する。この時代の和服と今の和服の様式上ですでに欠けていくらもなくて、小袖の最後に成型する時代を言うことができる。和服の長さが長くなり、浴衣も出てきました。女性は小袖を着ていますが(図13)、武士は長期間肩衣と袴の礼服を着ている(図14)。江戸時代の初期には、小袖のスタイルが流行していて、庶民の生活水準が向上し、衣装が華やかになる。しかし、戦争の原因で、武士の服のスタイルは簡単になる。江戸時代後期に鎖国政策を実施し、輸入のシルクは大幅に減少し、日本の現地生産のシルクも少なく、着物を作る需要が満たされていません。その原因で、庶民の和服は簡単になる。

             

      図13 小袖を着ている女性           図14 礼服を着ている武士

明治维新时代、明治维新は日本の大変革の时代である。开国政策は他の国の文化、生活様式をもたらし、服装の様式は急速に欧米化になる。宮中のドレスは洋服に変わり、上流社会の西洋のような服装も普通の民衆が受け入れる。庶民は洋服の価格が高く、伝统的な美しさに影响して、江戸时代の生活パターンがほぼ维持されているため、和服を着ていた。この時期には、日本では2つの異なる服装があり、日本の伝統的な服装と西洋から伝わった洋服を区别するためそため、「着物」という用語は「和服」に変更されました。

三 和服が発達する理由

1 政府の法的保護

 日本政府が和服保護の重視性を促進する。1950年、日本政府は「文化財保護法」を制定する。日本国会に、超党派で構成される「和装振興議員連」のメンバーは和服姿で登院することが支持される。その上、毎年の11月15日は「和服の日」を定める。周知のように、京都の伝統文化の雰囲気が匂い。それで、日本政府は「京都で、和服を着る女性はショピングとテクシーを乗るとき1割引きを受ける。その上、和服を着るとき、無料で公園に入ることができる」などの規定を制定する。

 日本政府が和服の教育の受容性を促進する。2002年、日本の文部科学省は子供が和服と伝統文化をよく了解するために、中学校に和服の教育課程が設立する。全国に多くの専門和服学校が設立する。例えば、大阪の日本和服学院や弥生服飾専科学校など公立学校とか私立学校とか多い。特別に、弥生服飾専科学校には、和服基礎学科が設ける。この学科は和服の用具や縫製技術や図案の設計や和服を裁断する技術や和服の着る方法など課目が設ける。文化女子大学はさらに服飾の博物館がある。この博物館には日本古代の5万件のコレクションが学生に参考させる。若者はこんな科目とコレクションを習得するとき、日本の伝統文化を了解ができる。

2 和服の絶えざる改良

 第二回世界戦争後、日本国内の経済は不景気の状況に陥る。和服の販売量も減少する。西洋化とともに、活動しやすさを求める日本人は洋服を着る開始する。それで、和服を着る日本人と和服を着るべき機会が減少する。しかし、こんな時、和服の優雅の特徴はアメリカ人を引き付ける。アメリカ人は和服を新鮮的と自然的な象徴と見なす。和服もファションの象徴にとして、アメリカ人の注目をあびる。後、日本国内の経済状況はよくになる。ある人は和服の保護が重視し始める。

 和服のデザインときれじが改良される。西洋化とともに、日本人は和服が日常的と着りやすさを求める。大衆の要求に基づいて和服のデザインが改良される。外観が変わらないに基づいて和服を作りのきれじがシルクだけでなく、洋服生地も使われる。活動やすさのために、和服の袖、帯、裾も改良される。特に、袖に大きな丸みをもたせるか、 斜めにとることになる。以前、和服は着る者の身分が示すができる。しかし、現在の人は和服の豪華な外観より快適さを求める。それで、和服の複雑なデザインが改良される。客は自分で着用のために、上着のが短くになり、 上下に分かれた二部式の和服は生産する。現在の和服は伝統的な外観がありでなく、洋服の実用性もある。現在、伝統工芸に基づいて、流行な要素と結び付ける和服は客に受けられる。

 和服を着る方式と礼儀が改良される。以前、温泉に浸かる時と入浴する時に着る和服は浴衣と言われる。現在、夏祭りに参加するときや夕涼みをするときなど浴衣を着る人もよく見える。以前、和服を着るときに礼儀が多い。座るときや歩くときや立てるときなど厳しい礼儀規則がある。現在、そんな複雑な礼儀で和服を着る人は少ない。

 和服を購入方式が改良される。以前、和服を買うとき、まず、客は自分好きなきれじを選んで、自分の体の寸法を図る。このあと、裁縫職人は客が選んだきれじで和服を作る。現在、こんな注文に応じて製作する和服だけでなく、完成品もある。なこれで、和服を購入は簡単になる。現在、お客さんは新型の和服を買うために、雑誌には和服を紹介するページがある。このページは旬の新型の和服を紹介し、価値や特色や店のアドレスなども詳しく紹介する。お客さんは紹介したアドレスで和服を買うできる。

3 国民の役割

 国民は和服の創造者。和服は人民の日常生活で生まれ,人々の生活には分けられない。国民は文化の主体であり、文化は社会に存在する普遍的な信念と共通の実践のルール。 国民の参加がない文化は無根の木である。文化は国家の魂であり、国家の繁栄のための無尽の動機。和服は服装だけでなく、日本人の歴史を記録者。和服の発展の歴史を振り返って、我々は多くの国民の努力を見ることができる。国民の生活状態、思想の状態が和服から表示されることができる。和服の誕生の中ですべての国民の積極的な参加が離れない。

日本の国民は特有の優勢がある。日本は国土の面積が小さく、民族には大和民族の一つだけがある。それで、日本の文化を普及することが簡単だ。日本は島国なので、ほかの国の文化は日本に広められることが難しい。ほかの国の文化より自分の伝統文化が受け入れやすい。日本人はほかの国の先進文化を学ぶことが好きですが、固定的な国がない。それで、日本の文化には多種多様な文化要素があり、多くの人に受けられやすい。

 国民は和服発展の推進者。若者は「特別」を求める。現在の若者は他人と比べて違うことが好き。したがって、成人式に、洋服より伝統的な和服を選んだ女性が多い。二、三十代の女性は色が鮮やかな和服が好き。こんな鮮やかな和服は自分の風格を示すことができる。広告と番組に、和服を着る俳優は和服を宣伝する。こんなシーンには誰もが引き付けられてる。こんな宣伝で多くの外国人は和服と日本文化を了解し始める。国民は経済発展を創造しながら新しい文化を創造している。国民の生活水準と精神境界の向上に伴って、国民は和服に対する要求も高まりになる。现在の和服は、日常の服ではなく、ファッションの要素になる。2020年の東京オリンピックを迎えるために、日本の福岡県久留米市の多くの和服店が4年前から、196国を代表する着物を作る「キモノプロジェクト」が実施された。国民の創造力は無限だ。最近、日本のデザイナーは設計した回路板を印刷した和服は多くの人の注目を集めている。現実だけてなく、二次元世界では、日本の和服要素の使用はさらにはっきりしている。 和服の絶妙なデザイン、さまざまなキャラクターの性格に合ったデザインが多い。和服の発展は国民の推進が離れない。

 社会団体の支持。和服の宣伝のために、国民は「全日本着物諮詢協会」という団体が創立する。協会の会長の山中典士は「装道」を提出し、この「装道」は「茶道」、「花道」と同じだと主張する。「心」と「身」を修練のために、この協会は和服を着る規則と礼儀制度を制定する。この基準でメンバーを養成し、和服を宣伝することに進む。この協会は伝統服装の宣伝に全力を尽くす。40年の努力のおかげで、現在、日本には和服諮詢師の資格証明証を持ち者の数は10万人になる。3500万人の和服が好きな人を養成し、礼法資格証明証を持ち者は3万人になる。

現在、日本人は和服を着る機会が少しが、和服を購入することができる。彼らは「和服は保護するべき日本文化」「そんな大切な服装だから若者に受け継いで欲しい」などと考える。これは民族自信だと思われる。民族自信は国の未来がよくになることを信じる。こんな民族自信で、伝統文化がよく保護されることができる。こんな民族自信で、新しい文化を作る出すことができる。

 

四 伝統文化保護への啓示

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