徳川慶喜が大政奉還を実施した原因について

 2022-01-19 11:01

目         次

一 はじめに 1

二 人物紹介 2

三 大政奉還について 3

四 原因分析 4

五 裏切り者か英雄か 8

六 終わりに 9

致 谢 12

徳川慶喜が大政奉還を実施した原因について

李赫 20141322025

要旨:徳川慶喜が日本歴史上の最後の幕府将軍である。大政奉還のことで、幕府政権を終わりに送った徳川慶喜に対する毀誉褒貶はそれぞれある。徳川慶喜はいったい英雄かではないか、大政奉還を選んだ理由は何であろうか、日本社会にどんな影響をもたらしたか、そして実施しなかったら日本はどうなるか。これらの問題を明らかにするには、大政奉還が鍵である。本稿では、人物と大政奉還を簡単に紹介してから、徳川慶喜が大政奉還を実施した原因を重点として、時代背景、出身、政治構想、性格、趣味の方面から考察を展開した。最後に徳川慶喜が日本歴史上の英雄であり、尊敬されるべきだと結論した。

キーワード: 徳川慶喜;大政奉還;影響;原因;英雄

一 はじめに

山岡荘八の『徳川慶喜』を読んだ後で、日本歴史上の最後の将軍である徳川慶喜(とくがわよしのぶ)のことに興味を持ってきた。調査した資料によると、徳川慶喜は「敵前逃亡の将軍」として批判されている同時に、「家康以来の傑物」とか、「世界一幸せな前政権の王様」とか、「明治維新の最大功労者であり、近代日本の恩人」と評価されている。

偉人に毀誉褒貶はつきものであるが、なぜ徳川慶喜は「幕軍兵士を見捨てた裏切り者」と「名誉を捨てて日本を守った英雄」という両極端に分かれたのか。徳川慶喜の敵前逃亡の本心は何であろうか。幕府将軍なのに、なぜ新政府から公爵位と財産が保全され、貴族院で政権参加も認められたのか。大政奉還を実施したことで幕府時代を終わらせた徳川慶喜は、一体どのような人なのか。権力を放棄したくなかった各代幕府将軍と違って、徳川慶喜が毅然たる態度で大政奉還を選んだ理由は何であろうか。大政奉還が日本社会にどんな影響をもたらしたか、そして実施しなかったら日本はどうなるか。これらの問題に迷っているから、筆者はいろいろ文献を調べて研究を展開した。あらゆる問題を明らかにするには、大政奉還が鍵であると思っている。

本稿では、まず人物と大政奉還を簡単に紹介する。それから、徳川慶喜が大政奉還を実施した原因を重点として、時代背景、出身、政治構想、性格、趣味の方面から考察を展開してみよう。最後に、上述の問題について自分の考え方をまとめるつもりである。

二 人物紹介

一言で言えば、徳川慶喜は日本歴史上で最後の幕府将軍である。

徳川慶喜は1837年に江戸小石川1にある水戸藩邸で七男として生まれた。幼名は松平七郎麻呂といい、

父は第9代水戸藩主の徳川斉昭である。幼児時代から、幕府初代将軍の徳川家康と同じ賢さを持ち、学問も武術も優れた秀才少年だったと言われている。1847年、第12代将軍徳川家慶の命を受け、七郎麻呂は同じ徳川一族であった一橋家の養子になり、徳川慶喜と名乗った。

1866年、第14代将軍徳川家茂の死後、将軍後見職などの要職を務めたことのある徳川慶喜は、第15代将軍に就任した。彼はフランスから援助を受けて、日本の開国に取り組んでいた。そして、ヨーロッパの制度を参考して、江戸幕府の政治改革に力を尽くした。幕末時期、徳川慶喜は大政奉還を実施して政権を天皇に返し、新政府側の西郷隆盛らと話し合って江戸城を明治新政府に明け渡した。約680年間続いた日本の武家政権はこれで終わりを告げた。

将軍を退任した徳川慶喜は8年間の貴族院議員生活の後、撮影、狩猟、民謡や手裏剣など多彩な趣味に没頭した生活をして、77歳までの人生を幸せに送ったそうである。

攘夷か開国かで激しく揺れている幕府末期、最後の将軍として登場した徳川慶喜は、大政奉還を選んで最長不倒政権である江戸幕府を終わらせた。その大政奉還について、次のように説明してみよう。

三 大政奉還について

大政奉還とは、一言で言えば幕府に属する政権を天皇に返すことである。

1 内容

 

江戸時代末期の慶応三年十月十四日に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許した政治的出来事は、大政奉還である。2

幕末になると、薩摩藩や長州藩などの倒幕派の動きが活発になっていたため、徳川家の本拠地の江戸城で戦いがあちこち起こった。第2次徴長戦争から、徳川幕府は日本を統治した能力を失ったから、日本の政治結構を新たに打ち立てなければならないと主張した維新派ができた。土佐藩の維新志士は「大政奉還論」を呼びかけて、徳川幕府に「大政奉還論建白書」を呈上した。大政奉還の主要内容は幕府は朝廷に政権を奉還すること、上と下の二つの議会を設立すること、憲法を締結することなどである。そのうえ、外国列強が大混乱に陥った日本を植民地支配しようと狙っていた。

新政府軍と徳川幕府軍の内戦を防ぎ、日本が植民地にならないために、慶喜はこのタイミングで大政奉還を引き受けた。大政奉還を実施したことで、倒幕派は倒幕の名目が無くなり、争う必要がなくなるから、1867年11月10日に徳川慶喜は明治天皇に政権を返した。これはいわゆる「大政奉還」ということである。

2 社会影響

大政奉還の目的は、内戦を避けて徳川幕府の独裁制度を修正し、公議政体体制を樹立することにあったが、大政奉還後も慶喜は江戸幕府と同じような実際的な政治権利を持っていたせいで、新政府軍と徳川幕府軍の「戊辰戦争」が爆発した。大坂城で指揮を執る予定だった慶喜が、家臣たちを見捨てて夜中に城を脱出し船で江戸へ戻った。この戊辰戦争によって江戸城は明治政府に明け渡されたが、江戸の町が戦争に巻き込まれることはなかった。つまり、いわゆる「無血開城」である。これで、源頼朝の時代から約680年間続いた日本の武家政権は終わりを迎えた。

ともあれ、大政奉還を行って明治政府への抵抗はしなかったので、慶喜は一命をとりとめ、徳川家を守ったと言えるだけでなく、大政奉還は植民地支配の危機から日本を救ったとも言われている。また、大政奉還は明治維新の新しい時代を開創して、日本の発展過程を加速させたという説もある。大政奉還の社会影響は政治、軍事、文化、経済など四つの方面に体現した。

政治において、大政奉還前に実際の政権は徳川慶喜の江戸幕府に握られていたが、大政奉還後で明治天皇に戻った。そして、大政奉還の後、新政府が鎖国外交政策を改革して、資本主義制度を導入した。

また、大政奉還前に日本の軍事実力は弱くてなぐられる地位にあったが、大政奉還後で大幅の軍事変革を実施したから、日本が軍事強国になった。

さらに、大政奉還は文化方面にも影響も与える。大政奉還後で民間で復古の高まりが次々と巻き起こた同時に、西洋文化を大いに導入した。西方文明を尊ぶ日本人は多かった。例えば、新旧文化の交替で、文字にいろいろ改革措置が現われて、仮名派、ローマ字派、新文字派という三種類に分けられた。

最後に、大政奉還が経済方面に与えた影響は大きい。幕末の腐りきった日本経済は、大政奉還後の明治維新のおかげで、大きな進歩を遂げた。日本は一挙に世界経済強国になった。

四 原因分析

社会影響から見れば、大政奉還を実施した徳川慶喜は確かに明治維新の功労者と言っても過言ではない。ただし、当時の徳川幕府はフランス軍の協力を得て、討幕派を征伐するのを選んでも必ず負けるとは限らなかったが、なぜ徳川慶喜は大政奉還を選んで幕府を終わらせたのか。その理由について、筆者は次のような幾つかの角度から分析してみよう。

1 時代背景

大政奉還して幕府勢力を瓦解するのは歴史発展の必然結果である。

日本の幕府は中国の清政府のように鎖国政策を実行した。しかし、西方列強の発展は非常に速い。アメリカはまず、日本に目を向け、侵略作戦を通じて日本に港口を開放して通商需要を実現させることを要求した。アメリカに続き、ロシア、英国なども相次いで日本と不平等条約を締結して自国の経済利益を実現させた。同時に、江戸幕府に不満を持つ討幕派と日本の政治改革を主張する維新派で日本中は大混乱に陥っていた。列強がそんな大混乱の日本を植民地支配しようと狙っていた。日本は同時代の中国のように情勢が危険で、多事多難の時に置いていた。中国文化の影響を深く受けた日本人は尊王攘夷の思想を持っていて、尊王攘夷を呼びかけることも高まった。

一方では、日本社会で商業を重んじる経済勢力は次第に形成した。尖鋭な階級矛盾で、政治改革が必要になった。西方列強からの貿易開放の要求に直面していて、徳川慶喜は西方制度を手本として幕府政治制度を改革しようとしたが、激しい維幕派と倒幕派との闘争で成功できなかった。

時勢に順応してより大規模な内戦を回避するために、国と民族の利益のために、植民地支配の恐れに気付いた徳川慶喜は、このタイミングで明治天皇に大政を奉還するより仕方なかったのではないか。

2 出身

徳川慶喜は徳川将軍家の分家である水戸藩主徳川斉昭の第七男である。徳川斉昭は徳川慶喜の襁褓のころからさまざまの期待をこめて観察していた。徳川斉昭は華麗で軽佻な江戸風土が質朴な男子気概を養成するに不利だと思ったから、一歳未満の慶喜を江戸から国元の水戸へと移した。以降9年間、水戸で学問や武術に励んだ。水戸学の会沢正志斎と青山延光は徳川慶喜の先生になった。水戸学は尊王攘夷の思想が強く、そして「帝王と覇王」という考え方があった。つまり、帝王は天皇で、徳を持って天下を治める。覇王は徳川家で、武力を持って天下を支配する。

そんな水戸学の薫陶を受けた慶喜は、将軍の座に固執しないで、何よりも「朝敵の汚名」を被る事を避けたかった。「幕臣の名誉」などどうでもよかったと思っていたかもしれない。将軍家茂の死後、後継者になった慶喜は、なかなか将軍に就任しなかった。こういうことから見れば、尊皇攘夷派であった水戸藩出身の慶喜は徳川家の宗主身分と幕府の将軍職を別のものと考えて、将軍としてのやる気がないようである。司馬遼太郎の『最後の将軍徳川慶喜』の中にも、慶喜がやりたくなかったのに将軍職を引き受けるしかなかったという感じで書かれてある。将軍をやる気がなかったのは、大政奉還後落ち着いてゆっくりと余生を過ごしたことからも分かれる。

水戸藩出身の慶喜は徳川宗家の存続や繁栄だけを自分の役目と考えていたから、大政奉還を実施したのは全然おかしくない。大政奉還は徳川家が生き残るための手段だったと言えてもいい。

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