中国における日本文学の翻訳について―二十世紀初頭に限って

 2022-01-19 11:01

目         次

一 はじめに………………………………………………………………………1

二 翻訳の特徴……………………………………………………………………2

三 中国への影響…………………………………………………………………7

四 終わりに………………………………………………………………………8

致谢…………………………………………………………………………………11

中国における日本文学の翻訳について

——二十世紀初頭に限って

藍麗麗  20141322040

要旨:中日両国の間は長い文化交流の歴史を持っている。近代になってから、日本から伝来した先進な思想や理念も中国の近代化の拍車となった。日本近代の先進的思想などを中国に伝えた方法の一つとして、中国における日本文学の翻訳の価値は大きな研究価値を有している。本文は二十世紀初頭という特殊な時期を背景に、この時期の中国における日本文学の翻訳概況を中心とする。そして論議の内容は主に翻訳の対象と方法という二つの面からその特徴を分析し、また、この時期の日本文学の翻訳が築き上げた成果とそれが中国社会への影響を検討する。

キーワード:日本文学;翻訳対象;翻訳方法;影響

一 はじめに

中日両国は一衣帯水の隣国であり、友好往来の長い歴史を持っている。大昔の隋唐の時期に日本はすでに遣隋使・遣唐使を中国に派遣し、その目的は海外情勢や中国の先進的な技術や仏教の経典等の収集とされた。今でも日本文化の中には唐の文化の影を見出すことができる。近代になってから、日本は明治維新を通して一連の改革を推し進め、西洋のものを学ぶという「文明開化」政策を制定し、それによって啓蒙思想は日本で広がっていた。ついに日本は近代化を実現した。それに対して、同じ時期の中国は清末の政府の無作為や老朽のため国力が弱くなってきて結局世界に遅れた。

二十世紀に入った中国はわずか数年前に第一次中日戦争1で日本に破れて、日本の実力や先進な科学技術に驚かされた。そして有識者たちの中国社会が存在している問題に対する反省はもとより深化した。日本の先進的な近代文明を学ぶという雰囲気が形成し始まった。1898年、日本の明治維新を模倣し、上からの政治改革により清朝を貧弱な状態から脱出させようとした戊戌の変法が実施されたが、改革の日数は短いので「百日維新」ともいう。変法を主張する維新派は日本の近代文明を取り入れた(翻訳が主である)主体となっていた。彼らは日本を通じて西洋の先進的な近代文明を積極的に導入し、それを訳された文章に反映させていった。変法は失敗したが、改良主義という思潮がもてはやされていた。中国における日本文学の翻訳もそれから初ブームが現れた。その後、1910年に始まった新文化運動と1919年に発生した五四運動のおかげで、日本文学の翻訳はさらに大きな発展を遂げた。この時期の日本文学翻訳作品の目録だけでなく、その具体的な内容の特徴を分析して、中国社会にもたらした影響の解明には大きな意義がある。

二十世紀の中国の日本文学についての研究としては、日本文学の翻訳を研究する大家王向遠と葉渭渠の研究が挙げられる。王向遠は『二十世紀の中国における日本文学の翻訳史』という著作で、翻訳文学の対象、訳者の翻訳原則と訳文の風格及び読者の反響によって、二十世紀を五つの時期に分けて日本文学を論述する。それに、五四運動は日本文学翻訳が現代化を実現し始める特殊の時点であると彼は「五四前後中国の日本文学翻訳の現代モデル転換」という論文に提起した。葉渭渠は「日本文学翻訳の過去と現在」という論文で翻訳の対象の移り変わりを検討した。そして、藤野寛之が「明治以降100年の中国における日本文学」も中国における日本文学の翻訳史について述べ、また、出版業の発展の面から翻訳の状況を分析した。

本文はこれまでの研究を基礎にして、特に二十世紀初頭の日本文学の翻訳をめぐって、翻訳史の発展という視点だけでなく、翻訳の対象と方法などと結合して検討を展開する。さらに、当時中国社会の大きな出来事と結びつけて、この時期の日本文学の翻訳は中国社会にどんな影響を及ぼしたのか、を検討してみる。

二 翻訳の特徴

二十世紀初頭の日本文学翻訳は当時社会の何らかの出来事で、その特徴は顕著な変化があった。特に翻訳の対象と翻訳方法は大きく変わった。その変化によって、日本文学の価値もますます移り変わっていた。これからはこの時期の翻訳の特徴について、詳しく分析してみる。

(一)翻訳の対象について

中国の翻訳史において、清末から中華人民共和国の成立までは翻訳の第三段階2と呼んでいる。この時期において、西洋の科学技術、思想、文化技術など諸分野の著作は全面的に翻訳された。翻訳の重点が移り変わっていたことも明らかになっている。最初は科学技術に重点をおいていたが、二十世紀に入ると社会科学と哲学、そしてだんだん純文学の著作を重視してきた。欧米の先進的科学技術を導入すれば、中国の貧弱な局面を変えることができると、当時の有識者たちはそう思っていた。

しかし、第一次中日戦争の失敗はこの夢を潰した。日本の実力に驚かされた中国人は明治維新がもらたした進歩を認識した。そして改革を求める有識者たちは日本を西洋文明を覗く窓として、日本文学の翻訳に力を注いでいた。翻訳の重点も資産階級の進歩思想を宣伝する社会科学と哲学に関する対象に推移してきた。そのうち、最初主な対象となったのは政治小説と恋愛小説である。

「データによると、1986年から1911年までの16年間、全国で出版された100冊以上の日本作品の中、政治改革を趣旨とする平等、民主など西洋の先進理念を宣伝するものは半分以上も占めているとのことである。」3その中で代表的なものは、梁啓超が訳した『佳人之奇遇』と『経国美談』である。話によると、この二つの著書は変法が失敗した後、梁啓超が内密に日本へ逃亡する途中で完成したものであるという。また、『佳人之奇遇』は清末における日本文化の翻訳の第一歩とされていて、梁啓超が創立した『清議報』に登載された。 恋愛小説の中で話題を呼んでいたのは林紓(林琴南)、魏易が共同で翻訳した『不如帰(ほととぎす)』であり、上海の商務印書館から1913年に刊行された。恋愛小説は中国の文化人にとっていつも下品の存在と扱われていた。しかし、林氏が訳した作品の中で、この本は中国の読者の間で影響が最も大きくて、清末に翻訳された唯一の日本名作とされている。この小説は第一次中日戦争を背景に、封建的な思想の圧迫を受けていた名門のお嬢様の恋愛悲劇を描いた。これは清末の中国の現状と合っていた。また、林氏は国を救うという呼びかけをこの本の前書きに書いたことも話題になった理由の一つである。

それ以外に、二十世紀初頭、中国の出版業はだんだん成熟してきた。科学小説、軍事小説、探偵小説、冒険小説、武俠小説など読者の趣味と好奇心を引き起こすことができる作品も翻訳の対象となった。例えば、明治時代の有名な小説家として、尾崎紅葉の作品が無視できない存在である。1905年、日本へ留学した吴梼が訳した『俠黑奴』と『寒牡丹』は上海商務印書館に出版された。それは中国における尾崎紅葉の作品に関する最初の記録である。その中で、『俠黑奴』は何度も刊行されて最も人気があった。しかし、『俠黑奴』と『寒牡丹』は尾崎紅葉が学生時代に書いたした作品で、また彼の原作ではない。吴梼は当時話題になっていた『金色夜叉』ではなくこの二つの本を選択したのは読者の好奇心を考慮したであろう。

また、清末の翻訳小説の中で、もともと日本のものではなく、欧米やロシアなどのものも多かった。「樽本照雄が行った統計によると、国がわかる清末翻訳小説は1748種があり、日本語を通じて訳された欧米文学作品はその4.5%を占めて、78種に至った。」例えば、中国に導入された第一部のマーク・トウェインの作品は陳景韓が訳した『食人会』である。彼が基づいた原文は原抱一庵が訳した日本語の訳文である。そのほか、ロシアのプーシキン、チェーホフ、ゴーリキー、フランスのユィグォ、モーパッサン、大デュマなど有名な外国作家たちはすべて日本文学を通じて中国に輸入された。

しかし、清末から五四運動までの翻訳はまだ本当の日本文学に触れなかったと言えると思う。五四運動と新文化運動により、二、三十年代における日本文学の翻訳は新たな一ページが開かれた。相手国の文学の状況を全面的に了解することはいい翻訳書目を選ぶ前提である。五四運動後、訳者たちはほとんど日本へ留学した経歴があり、日本文学に対する理解も深くなった。

五四運動の期間中、人道主義と理想主義文学を提唱する白樺派は当時の「人的解放」「個性の解放」という時代の流れに合っているため人気を集めていた。二十年代後半、文学界の思想が分裂になった。そして、日本文学の翻訳は百家争鳴の状態にあった。人道主義文学依然として重視されていて、そして耽美主義、新思潮派、プロレタリア文学なども訳者たちの注目を引き起こした。もちろん、夏目漱石と森鴎外のような日本文学のリーダーの作品の翻訳も盛んに発展しつつある。これは訳者たちがより高い翻訳水準と文学に対する鋭い洞察力を備えていたことを反映した。

もう一つ注意すべきところは、新文学の発展の要求に応じて、日本近代文学理論の翻訳も盛んになっている。その点から見ると、中国の近代文学の発展は日本文学理論と深い繋がりを持っている。

全般的に見ると、二十世紀初頭の日本文学の翻訳対象の移り変わりは当時の中国社会の出来事とは緊密な繋がりがある。当時の翻訳内容の選択は第一次中日戦争や変法活動、五四運動などの時代の動きやニーズに支配されていたと言える。それを分析すると、この時期における日本文学の翻訳対象の選択も側面から中国人が国と国民を救うために苦闘していたことを反映した。

(二)翻訳の方法について

二十世紀初頭の中国における日本文学の翻訳方法は五四運動前後において大きな変わりがあった。1901年、厳復は出版された『天演論』で「信・達・雅」という概念を翻訳の基準として示した。しかし、五四運動前の訳者にとってはまだ難しいことであった。その時期の翻訳は大いに三つの基本的な特徴がある。

第一、翻訳された文章はほとんど文語体であった。その原因として、この時期の中国の翻訳家たちが生まれ育ったのが文語文の環境で、小さい頃から文語体を体で覚えていくのであったことが挙げられる。彼らにとって、文語体で創作するの方がやすい。当時、梁啓超、魯迅、厳復などの有名な訳者たちはほとんど訳文を文語体にした。そのうち、魯迅は口語体の訳文は長すぎて複雑になるとして、文語体を選択した。また、時代の流れである文語体で書いた訳文は読者にとって受け入れやすいものである。そして、言文一致運動は日本で普及していなかったため、はじめて口語体で書き上げた作品は1887年二葉亭四迷が書いた『浮雲』である。五四運動が発生した前、中国語に翻訳された作品はほとんど和語で書いたものである。和語は中国の文語文とある程度似ているという事実は当時の翻訳に一定の影響を及ぼしたとのことであった。翻訳の原則から見ると、文体が一致したというメリットもある。

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