『虞美人草』に描かれた女性の人物像について--藤尾を中心として

 2022-01-19 11:01

目         次

一 はじめに 1

二 夏目漱石の文学創作 2

三 『虞美人草』について 3

四 藤尾の性格について 5

五 藤尾の死について 8

六 おわりに 10

致 谢 14

『虞美人草』に描かれた女性の人物像について

――藤尾を中心として

潘显芳 20141322020

要旨:夏目漱石は日本の国民的大作家で、東方と西方の文化の造詣がどちらも深い。漱石は日本の文学に大いに貢献した。『虞美人草』は漱石が専門作家になってから書かれた第一作であり、漱石に大きな影響を与えた代表作でもある。この小説は明治四十年から連載された新聞小説である。『虞美人草』が発表した間もなく、すぐ人気があった。しかし、この小説に対して、賛否両論があり、すごく優秀な作品だと言う人もいれば、読み続けない小説だと言う人もいる。『虞美人草』は日本ではだいぶ注目されていて、主人公藤尾に対する分析が多いが、中国ではまだ少ない。本論は主に『虞美人草』をめぐって、主人公藤尾の人物像を分析して、この人物をよりよく理解するようとする。そして、藤尾の死と死因にも触れる。

キーワード:人物像;自尊心;性格;自己中心;死

一 はじめに

夏目漱石は日本近代文学史に高い地位を持っていて、よく知られている。また、日本の「国民作家」でもある。『虞美人草』は漱石の代表作の一つで、明治四十年十月二十九日に果された小説である。藤尾はこの小説の主人公である。藤尾という人物について、その顔立ちのよさを認め、性格には否定的な態度を持っている学者が多い。「藤尾は妖艶で、「家父長制」を反抗し、男女平等と個性自由を追求する新しい女であるし、西洋資本主義の価値システムに、深く毒される自己本位の者でもある」1と指摘した学者がいる。

夏目漱石について、中村光夫は「漱石は明治の作家のうち、文明批評の第一人者であった。所謂明治の新文明に含まれた或る微妙な虚偽を彼ほど鋭敏に感受した人はない」「彼は当代の文化の病患に対して最も鋭敏な嗅覚に恵まれた人であった」2と言った。中村光夫が夏目漱石への評価は高いと見える。

『虞美人草』の小説の性質について、李楠は『重読《虞美人草》』の中で、小説の思想内容から見れば、『虞美人草』は夏目漱石が文明に対する批判の典型的な著作と言えると指摘した。ここでは、筆者は『虞美人草』が文明批判小説だと思うことが分る。

赤井恵子は『藤尾の形象――「虞美人草」における初期短編の投影』の中で、作者が必ずしも藤尾を嫌悪しているとは限りないと思った。作者が素敵な皮相さを与えているばかりではなく、藤尾の詩的美にも、相当の比重を置いていると赤井恵子はこう述べた。

『虞美人草』に関する研究が多いが、藤尾の人物像を分析するものは実に少ない。だから、本論は一層藤尾を理解するために、先行研究とテキストを踏まえて、藤尾の人物像を考察するものである。まず、『虞美人草』の創作背景を説明し、次にこの小説のあらすじを紹介する。さらに、主人公藤尾の性格を分析し、藤尾の死について論述していく。

二 夏目漱石の文学創作

 夏目漱石の創作生涯はただ十年ぐらいで、創作の時間が遅いであると言える。しかし、夏目漱石はこの十年を通して、日本に誰でも知っている有名な作家になる。漱石の文学創作は主に日本の近代社会の問題をめぐって書かれて、現実主義を批判する意味が強い。この十年の間に、漱石は数多い作品を創作した。その中で、『吾輩は猫である』、『ロンドン塔』、『明暗』、『虞美人草』、『坊ちゃん』などが漱石の代表作で、重要な地位を持っている。

 漱石は子供の頃から漢文学を勉強した。例えば、『孟子』、『論語』などである。漢文学の思想、特に儒学思想は漱石の文学創作に大きな影響を与えた。例えば、『吾輩は猫である』の中で、『論語』にある言葉は幾度直接に引用される。『吾輩は猫である』は漱石の第一作で、偶然に主人公の家に来る猫を通して、日本の近代社会の醜悪な世相を反映する。漱石はこの作品によってからこそ大衆に知られたのである。『虞美人草』の中で、いろいろな詩句が現われる。ここでは、ほとんど漢詩の影響を受けることが分ろやすい。それに、『虞美人草』では、漱石は利己主義を批判し、論理を提唱し、自己中心の主人公藤尾を最後に殺した。中国の伝統的な女性は勤勉で、優しく、淑やかであると要求された。『虞美人草』にいる小夜子と糸子はこんな条件に合う女性であるから、漱石は彼女たちに比較的によい結末を与える。

 夏目漱石の文学創作は漢文学の影響を受けるばかりではなく、西洋文化の影響も受ける。当時、日本は明治維新の影響を受け、盲目的に西洋文化を習い、良いものであろうとなかろうと全面的に模倣した。これは日本社会に速く発展させている同時に、いろいろな問題を引き起こした。拝金主義、利己主義、外国に媚びることなどはこの時代に起こった問題である。漱石はこんな習う方式と現実を批判した。従って、漱石の作品に、主に現実を批判する。

 中国文化ばかりでなく、西洋文化も漱石に大きな影響を与えたからこそ、漱石の文学創作にこの両者の跡を見つけやすい。これも漱石の文学造詣の深さを顕れる。

三 『虞美人草』について

 漱石の作品の中に、『虞美人草』は『吾輩は猫である』や『心』などよりそんなに有名ではないが、日本文学史に重要な地位を占めている。以下は『虞美人草』の創作背景とあらすじを述べていく。

1 『虞美人草』の創作背景

『虞美人草』を創作した時、日本は明治時代にあって、西洋の思想は日本に入った。例えば、男女平等、個人主義、自然主義などである。その同時に、生活様式も西洋を真似た。二十世紀の初期、日本は封建主義からだんだん資本主義社会になって、人々は西洋の文化にすごく崇拝し、盲目的に西洋化した。夏目漱石は1900年英国に行った。そして、1903年帰国した。英国で留学していた時、漱石は日本と英国の差の大きさをしみじみと感じた。それは物資でも精神でも豊富だということである。その同時に、漱石は西方の悪い面も認識した。拝金主義はその一つである。帰ってから漱石は大学の講師を務めた。しかし、小説に大きな興味を持っているし、月給も足りないし、漱石は小説を書かれた。漱石の書かれた小説は主に現実主義を批判するものである。その中で、『吾輩は猫である』、『虞美人草』、『坊っちゃん』などが人々に大いに啓発された。日本は全面的に西洋化した。いわば、良いものでも悪いものでも全部西洋を学ぶことである。このようにしてはいけない、と漱石はこう思う。その時、朝日新聞社の重要な人物として、大衆の意に従って気に入られるよう、漱石は新しい女性の藤尾を創造した。しかし、漱石の主な意図は全面的な西洋化を批判することである。だからこそ、漱石は最後藤尾を殺したのである。

2 『虞美人草』のあらすじ

二十世紀初期、日本は封建社会から資本主義社会に変わったばかりである。多くの人は西洋の文化を崇拝して、若い者は大いに思想の解放を唱えた。特に上流階級がほとんど西洋の文化を潮流としていた。こうしては、先進的な思想と独特な行いの若い人が現れた。

外交官の娘の藤尾は子供の頃から西洋の文化を接し、学識が豊かで、言葉遣いも上品である。藤尾の父親が外国で客死した後、藤尾の腹違いの兄から遺産を奪うために、母親は藤尾の結婚を催促する。しかし、藤尾は父親の決めった婚姻に満足ではない。行いの荒っぽい婚約者の宗近と比べて、貧乏であるながら非常に高い栄誉のある詩人の小野と付き合いたいと思う。藤尾は自分と詩人の未来を想像し放題で、学識の深い詩人との雅やかな付き合いを享受していて、詩人が自分のためにすることの虚栄に耽っている。しかし、彼女はそれが本物ではないことに気づかない。詩人は本当に藤尾が好きではなく、好きなのは彼女の財産と美しい顔立ちである。小野さんはとっくに孤堂先生の娘の小夜子を嫁にすると約束したが、この約束を破ろうとしたい。孤堂先生は自分の体の状況は悪いと知っているからこそ、娘を京都から東京に行って、小野さんの所へ身を寄せるつもりである。小夜子が落ち着き先があってこそ初めて孤堂先生は安心することができる。小夜子はずっと小野さんを自分の婚約者としている。小野さんがほかの人が好きだと知っているが、小夜子は何でも言わないで彼を待っている。小野さんが貧しくて、学識も外見も劣っている小夜子を選ばない、と藤尾は信じている。藤尾と小野さんは大森に行くと約束した。小野さんが行くなら、藤尾を選択することである。この瀬戸際に、宗近は小野さんの所に行って彼を説得した。小野さんは最後、良心で小夜子を選んだ。真実を知った藤尾は非常に怒って、甚だしく自尊心を傷つけられたと思う。藤尾はしまいに死んでしまった。藤尾は自分が一番重要だと思い、いわゆる愛は、相手は自分の意思に従て動くことである。こうしては本当の愛を得ることができない。藤尾は詩的であるが、道義がない。

四 藤尾の性格について

 漱石が書かれた藤尾は妖艶で、非常に美しい女である。彼女は美人だけでなく、知識人でもある。単なるこの点から見れば、藤尾は魅力的で、引きつけるところがある。しかし、藤尾は自己中心で、わがままで、自尊心が強すぎ、いつも自分の利益のために、他人の感情と利益を傷つける。こんな性格は普通の人が制御することができない。以下は藤尾が生活している家庭環境と社会環境、また比較の方法で藤尾の性格とその原因を論述していく。

1 自己中心の藤尾

藤尾は家父長制を反し、父親が決めた婚姻を無視して、自分の意思で恋人を選ぶ。小山静子は「何の不自由ない、恵まれた生活を享受している「良家の子女」であり、父親の意思に反して、明確に自らの意思を表明する女、そして男をリードする女、これが藤尾である」3との指摘があった。これと比べて、糸子の見方はずいぶん違う。糸子は兄が結婚した後また自分のことを考えるという。これを聞いて、藤尾は「家庭的の婦女は家庭的の答えをする。男の用を足すために生まれたと覚悟をしている女ほど憐れなものはない」4と思って、軽蔑した。ここでは藤尾の自己本位は糸子の私心のないこととの対照が明らかである。また、藤尾は愛されたいだけで、ほかの人を愛することは全然考えない。小野さんに対してもその存在を無視する--「男の我を忘れて、相手を見守るに引きかえて、女ははじめより、わが前に座れる人の存在を、膝に開ける一冊のうちに見失っていたとみえる」5。漱石も「藤尾は己のためにする愛を解する。人のためにする愛の、存在しうるやと考えたこともない。詩趣はある。道義はない」「藤尾は愛の女王である」6と書かれた。このようにしては二人の関係は不平等である。小野さんは何の背景もないし、お金持ちでもないので、藤尾の財産が必要になる。腹違いの兄から亡くなった父親の遺産を受け継げるために、藤尾も小野さんのような人を結婚相手にするのが必要である。小野さんは宗近のように一筋なわでは行かない人ではなく、藤尾の思い通りに行動を取ってくれることができる。それに、結婚しても、何をやらせても彼はおとなしくよく言うことを聞いてやってくれる。これも私利私欲と言える。

2 自尊心の強すぎる藤尾

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