明末清初の中日貿易をめぐる再考察ー海上政策という視座から

 2022-01-19 11:01

目  次

一 はじめに 1

二 明朝初期における中日関係と貿易 2

三 明朝中期における中日関係と貿易政策の変動 6

四 明清交代から清前期の中日貿易と貿易政策の変動 9

五 おわりに 13

注 14

参考文献 14

中文摘要 16

致谢 17

明末清初の中日貿易をめぐる再考察

         ――海上政策という視座から

杨令姣 20141322028

要旨:17世紀から18世紀まで、中日両国の国内で大きな変動が起った。両国は従来の海上政策を続けた同時に、新たな対象と実情に対して、自分なりの政策を出した。徳川家康は江戸幕府を創立して以来、いつも対中の厳しい鎖国政策を実施するとは一般的な認識である。また、明朝と清朝の時代には「鎖国」は主流的な政策と言われる。しかし、その時、中日貿易は依然として大きな成果をあげた。特に、長崎貿易は中日貿易の発展と変遷には重要な役割を果たしていた。一方、明末清初は中日両国の国情と対外政策は共に激しく変化している。その変化も両国の貿易にも大きな影響をあたえていた。中日両国の貿易活動と国交はそのような要素の影響で変遷している。

キーワード:中日関係;中日貿易;長崎貿易;明末;明清交替;清初期

一 はじめに

  1. 問題意識

中日両国は政治、貿易との関係が長い歴史を持っている。両国の正式的な貿易も民間貿易、対外関係の重要な一部である。江戸幕府の初期から中期までは、ちょうど中国は明末清初の動乱に迷っていた時期から清朝廷が成立した時である。この時は中日貿易の歴史における特別な時と言える。民間貿易は官方貿易を取り替えていて、段々重要な位置を占めていた。その時の中日貿易はいったいどのような変化が起ったのか。そして、それは両国にどのような影響を与えたのか。本論文では、中日両国の海上政策をめぐって両国の貿易の発展、変化を考察し、今までの中日貿易に関する認識を再検討し、中日関係と貿易に関する研究を豊かにすることができる。

  1. 先行研究

中日関係と貿易に関する研究について、中日両国にはたくさんの学者は研究している。日本方面では木宮泰彦の『日中文化交流史』1と『日中交通史』2で全面的に中日両国歴史上の交流と貿易を述べて、中国と徳川幕府との交渉をも総括した。『近世日本と東アジア』3という著書で徳川幕府の初期から中期まで段々形成した「鎖国政策」を論じて、その政策の実施した原因を説明している。そして、その時中国の「華夷体制」の影響をうけて、日本国内にも自国なりの「華夷政策」を形成してきた。その他、荒野泰典の『近世中期における長崎貿易体制と抜荷(密貿易)』という論文には、17世紀から活発していた密貿易と長崎貿易を詳しく論じる。そして徳川幕府の『正徳新令』の働きと影響について説明している。中国国内で中日貿易に関する研究は以前から多いので、色んな論点を形成した。王辑五の『中国日本交通史』で中日両国に明朝から存在する倭寇問題と日本方面の実情を説明した。そして、李德霞の『德川幕府と明朝の貿易関係論析』で徳川幕府と明朝初期と中期における中日両国の国交と貿易活動を紹介して、またその時の海上政策を論じた。その他、李金明は書いた『清初中日の海上貿易』の中で、清朝の初期における中日両国の貿易政策を論じて、その影響を述べていた。

本論文では以上のような先行研究を踏まえながら、海上政策を中心に明末清初における中日貿易について考察してみたい。

二 明朝初期における中日関係と貿易

    1. 明朝初期の中日関係と貿易活動

1.明朝初期における中日関係

明朝の対外政策は一言にして言えば、諸国に対して朝貢貿易の形態を厳守させるとともに国内では人民の海外出航禁止されたという海禁政策の実施を基調とする方針であった。海上政策と方針は明朝の太祖洪武帝の時代にはほぼその形態を整えたということができる。洪武帝は政治的な海禁政策をとると共に、そのごろ朝鮮半島から中国の沿岸にかけて神出鬼没の活動を展開していた。いわゆる倭寇の活動は大きな作用を発揮している。明初以来、倭寇の中国沿海活動はほとんど時と所を選ばず展開していた。その行動領域は山東方面から江蘇、浙江、福建の沿海を沿って、遠く広東方面にまで及んでいる。倭寇の略奪の目標は何ですか。資料の面から多くを見ることができるが、主として糧米、財貨並びに無辜な男女良民に置かれていた。このように略奪された良民は日本では奴隷として使役されたはか、取引対象として転売されたことも多い。

そのころ日本では、足利義満が征夷大将軍として北朝の下に京都で政権を担当するにいたったが、全国的な統一的な政権はまだならず。九州方面には肥後の菊池氏の庇護をえて南朝の征西将軍懐良親王が太宰府にあって、足利氏に対する抵抗をこころみていた。明使の楊載らが日本の実情を知らず、九州各地に上陸して征西将軍を日本の国王と誤認して、国書を呈上した。懐良親王は国書を読んで、非常に怒って、使者5人を殺した。楊氏も拘留された。三が月後、残した楊氏と他の使者たちをを中国へ回送した。

それにもかかわらず、1370年,朱元璋は再び日本へ使者の趙秩を遣った。この時の懐良親王の統治は北朝の菊池氏の攻勢で日々弱くなっていた。今度、懐良親王は明朝から来た使者を拒まないで、彼らを応対した。それに、趙秩らが帰国する時、懐良親王から得た朝貢とする品物を持って帰った。中国側では、日本使節が表文ならびに進貢物としての名馬、宝刀などをもたらしたことをもって、臣服の意志表示と解釈したのであろう。中国使節趙佚らの日本派遣の結果、征西将軍懐良親王は洪武四年に僧祖来らを答礼使として明朝に送った。太祖は祖来らの一行を宴饗するとともに、その帰国に際してはこれを護送し、かつ日本国王に大統暦を頒賜するため、高僧の祖闡、克勤をまた使節として派遣してきた。それは明代と日本使節の最初の公式交渉であった。祖闡、克勤らの外交行動は中日関係をが帰国した時、西朝の統治もほぼ潰れていた。彼らは北朝の足利義満と連絡しようとしたが、政権は彼らを妨げるため、彼らに衣食住を提供しなかった。1392年、足利義満は南朝の政権をすべて撲滅し、日本を統一した。その時、明成祖は依然として「万国来朝」という理念を貫いて、日本との朝貢関係を改めて建築したかった。

2.明朝初期における形成した中日貿易の基調

明朝が創立して初めて、明太祖は潰れている景気を回復するため、親善な外交政策を制定した。彼は前の統治者たちの武力に訴える行為を反対し、特に東南アジアの諸国に親しい政策を取っていた。太祖の海外諸国にたいする建国詔論にはこのように述べた。

上帝は生を好み不仁なる者を悪む。向には、我が中国、趙宋の馭を失いてより、北夷入りてこれに拠り、胡俗を播いて以って中土を腥羶し、華風競わず。凡百の心あるもの、孰か憤りを興さざらんや。辛卯(紅巾の暴動)より以来、中原擾々す。彼の倭来りて山東に宼するは、胡元の衰に乗じたるに過ぎざるのみ。朕もと中国の旧家にして、前王の辱を恥じ、師を興し旅を振い、胡番を掃蕩す。宵衣旰食すること土十年に垂んとす。去歳 (一三六八年)より以来、北夷を殄絶して以って中国に主たるも、惟だ四夷には未だ報ぜず。間者、山東来り奏する に、倭兵しばしば海辺に宼し、人の妻子を生離し、物命を損傷すと。故に書を修めて、特に正統の事を報じ、兼ねて倭兵越海せるの由を論す。詔書到れるの日、臣たるが如くんば表を奉じて来庭せよ。臣たらずんば則ち兵を 修めて自ら固め、永く境土を安んじて以って天休に応えん。必ず寇盗を為すが如くんば、肤まさに舟師に命じて 諸島に揚帆せしめ、その徒を捕絶し、直ちにその国に抵りてその王を縛るべし。豈に天に代りて不仁なる者を伐 たざらんや。惟だ王これを図らんことを。4

と、新王朝の成立を告げて朝貢を促すと同時に、それも倭寇禁止にたいする強い抗議文であった。これが明朝の日本にたいする最初の外交上の詔論であったことは、「四夷にはいまだ報ぜず」とか「特に正統の事を報ず」と記しているところから容易に推測される。しかもこれが外交上の文書としては、威嚇的な表現に充満していると言える。それは当時の倭寇の侵害にたいする太祖の怒りを卒直に表現したものとみられる。洪武年に倭寇の反乱で、明朝の統治者は厳しい海禁政策を制定し、朝貢貿易以外の貿易活動を禁止した。洪武十三年明太祖朱元璋は倭寇と密通するという口実で丞相胡惟庸を誅殺した。それと同時に、日本との貿易を断絶し、日本を「不廷の国」として、中国沿岸地域の北から南まで貿易政策とふさわしい海防政策を作り出した。そのように、明初期から中日国交と貿易の基礎を形成した。その結果、中日関係に一旦危機があったら、中国側はまず断交政策と取って、日本との正式往来と海上貿易を禁止し、海禁政策をとった。

民間貿易を絶えるための海禁政策をとるとともに、明太宗は日本との朝貢貿易を積極的に発展して、使者を遣った。その目的は東南アジアの諸国と明朝廷の朝貢貿易を促しているた。1368年、明太宗は日本へ使者を派遣して、中国と日本関係の発展の幕を開けた。しかし、その時(1335年)日本も南北朝時代に入って、中日関係は円滑に進めなかった。中国はできるだけ日本北朝の足利政権との連絡を取って、両国の貿易を建築していた。明朝からの外交に関する文書は懐良親王の手に入れて、室町幕府に通じなかった。明太宗の時、中国と日本の国交と貿易は正式に建築できなっかた。

明成祖の時、海禁政策は緩んでいた。海上貿易を拡大するため、貿易機関を建設するだけでなく、専門的な駅を作って、朝貢に来た使者を応対した。勘合貿易は朝貢貿易の主の形式として、中日の貿易往来に重役を務めいていた。しかし、明太宗の時創り出した厳しい海禁政策のせいで、来朝した使者は少なかった。それは明成祖にとって恥ずかしいことといえる。使者の数を増加するため、使者に一連の恩沢をあたえていた。国の規模と強弱を問わず、明成祖は自ら彼らを接して、恩恵の条件を提出した。特に、明成祖の時、鄭和の遠洋航海は歴史に重要な影響を与えた。中国の親善的な態度を表すとともに、中国同時に発明された技術を海外に拡大していた。

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