蘭学の日本における発展の原因と影響について

 2022-01-19 11:01

目         次

一 はじめに 1

二 蘭学勃興の諸前提 2

三 蘭学の発展 5

四 蘭学の影響 12

五 おわりに 13

致 谢 16

蘭学の日本における発展の原因と影響について

肖洋 20141322026

要旨:18、19世紀、日本は西洋の科学技術を身につけるために、オランダ語を勉強した。当時の日本人は西洋の科学技術を「蘭学」と呼ばれるのは、そのそれぞれ西洋科学技術はオランダから転入したからであった。蘭学は西洋のブルジョア階級の近代科学であり,日本の生産力の発展や反封建思想の生成に大きな役割を果たしたことがある。本稿は、蘭学の日本における発展の原因と日本への影響について探求するつもりである。

キーワード:蘭学;科学技術;西洋文明;幕府

一 はじめに

明治初期、日本は西洋文化を吸収し、「文明開化」の潮流が迅速に形成された。それは突然になったものではなく、江戸時代(1600-1868年)中後期に蘭学の新興と幕末西洋学の発展と緊密な関係があると思われる。

蘭学とは、日本が鎖国時代に、オランダ人或いはオランダ語で移植、研究した西洋学術の総称である。また、中国に行った西洋カトリック教の宣教師による著作が日本に伝わった中国語の西洋学術著作も含まれる。蘭学は一つの歴史名詞として現れるのは、18世紀後期に前野良洋と杉田玄白等の人がオランダ語の解剖書籍―『解体新書』の出版をマークとしている。また、オランダの書籍を媒体として、西洋の学術への研究、移植が始まった。杉田玄白は回顧録『蘭学事始』において、医学著作への翻訳を新たな学問への「創業」と思い、その学問を「蘭学」と呼ぶ。

李宝珍が「蘭学在日本的伝播与影響」(『日本学刊』1991年第2期)において、蘭学の日本へ転入した歴史背景と条件および鎖国前の南蛮学の転入について考察した。喩氷峰は「“蘭学”在日本出現的原因探析」(『重慶教育学院学報』2003年第5期)においては、日本民族の特性、民族危機感、知識人の活躍と漢学の基礎蘭学の発生という四つの方面から蘭学の日本への転入の原因を分析した。趙徳宇は「西方科学初転日本及其歴史影響」(『日本学刊』2001年第5期)で「解体新書」の出版は近代学術の道を開き、蘭学、儒学と国学が日本三大学問体系になったと主張した。

蘭学の内容は非常に幅広い。医学、天文学、暦学、地理学、博物学、物理学、化学、兵学、砲術等の科学知識を含まれる。本稿は蘭学の誕生、発展及び日本歴史への影響等の面から、その歴史役割を分析する。

二 蘭学の日本における勃興の諸前提

日本における蘭学の伝播の歴史背景と条件から見ると、鎖国前の南蛮学の伝播は、日本での西洋文化の導入の始まりとなる。

日本と西洋の接触は16世紀中期から始まった。1543年、ポルトガルの船は種子島に漂流し、鉄砲をもたらした。それは、西洋物質文明の最初の輸入である。6年後、宣教師のフランシスコ・ザビエル(1506-1552年)は鹿児島に布教活動をしてきた。それは、西洋の精神文明が日本へ輸入する始まりである。その後、寛永鎖国までの約100年間、スペイン、ポルトガル等の「南蛮人」は、貿易と伝教活動を通して、西洋物質文明とキリスト教文化を日本にもたらした。当時は、「南蛮学」と呼ばれた。貿易により伝来したのは、主に西洋の生産技術である。例えば、鉄砲の製造及び造船術、航海術等である。カトリック教により伝入した南蛮学は、文化教育、言語、哲学、天文、暦学、地理、医学等を含まれる。特に、一部の教化施設を設立、各種のヨーロッパ学術もそれと共に転入してきた。特別に説明したいのは、教会がこれらの西洋文化の目的を伝播するのは、民衆を巻き込み、布教に有利のためであった。鉄砲の製造技術、航海術、地理等の西洋科学は日本人に魅力的であるだけでなく、ヨーロッパ日常生活の服装、飲食、娯楽などの物質文化も、当時の日本人にとって、かなり魅力的である。多くの人が、それを動機として、カトリック教に信教した。宣教師の強力な布教活動により、教会の勢力は日本で盛んになってきた。民間だけでなく、大名、武士階層まで広げた。教会が宣伝したのは「ゴッドは全てより高い」。ゴッドへの信仰は、必ず日本の幕府の将軍への「忠誠」より高く、「人類平等」の思想を提出した。それは日本幕府が推薦した君臣、父子という厳しい等級観念がある封建秩序と異なり、日本の封建統治の安定に脅かした。それに、日本の統治者も、カトリック教の西洋国家による日本領土への野望を感じた。そのため、幕府は、相次いで厳しい禁教政策を実施した。教衆に対して残酷な弾圧が行った。17世紀中期まで、徳川幕府は前後5回(1633-1639年)に「鎖国令」を公表し、厳しく「鎖国政策」を実施した。

幕府の禁教鎖国は、南蛮文化の伝播を止めた。禁教政策の一環として、1630年幕府は禁書令を公表し、1685年また「貞享厳令」を公表した。こうすると、西洋書籍の輸入はほぼ不可能となるから、国際文化の正常な輸入の支障となった。そのため、100年近くに伝播された南蛮文化は、著しい影響をほぼ残されなかった。大部分は、鎖国に伴い消してしまった。日本の統治者より弾圧した結果だけでなく、南蛮文化の伝承は日本人自発的な要求ではなく、貿易、布教からもたらしたものである。同時に、日本も西洋文化を伝入、吸収の条件を持っていなかった。

それにもかかわらず、南蛮学は、日本が西洋文化を吸収したことの初めての試みとして、否定できない意味を持っていると思われる。同時に、一時的な開放だが、日本人の視野を幅広く広げた。また、南蛮文化自身は中世の宗教を持っているが、当時の日本の学術レベルより大きい。それが直接、または間接的に日本の近世科学文化の発展を促した。民生に対して、効果がある南蛮科学技術は、統治者の弾圧の中でも、粘り強く存在してきた。それも、元禄(1688-1703年)前後、商品経済の著しい発展をベースとする「実学」の形成にも有利な条件を備え、西洋文化の再び輸入、即ち蘭学の新興の準備ともなる。3

先進の科学文化の移植は、必ず科学の基盤が必要である。日本自身の科学文化の発展も、その後蘭学新興の基盤づくりとなる。それは、蘭学誕生の二番目の条件である。 

日本の科学文化は、長期的に、古代アジア、特に中国科学技術文化の影響をして、発展してきたものである。戦国時代、日本の社会生産は発展し始めた。特に、17世紀以降、幕藩体制の確立により、国内には長期的な統一な平和の局面となり、農業生産は著しく発展した。それに伴い、手工業、鉱業及び商業、都市、交通等の発展も盛んになった。国内経済が発展した前提で、産業技術は引き続き発展し、日本独自技術学の誕生を促した。同時に、効果がある技術、敬虔、知識を整理し、経験科学と整理した。当時、日本は、技術学と経験学を実学と呼ばれる。蘭学新興前の元禄―享保時代(1688-1735年)、農学を主要とする鉱石業、手工業等の産業技術学と天文学、暦学、和算、本草、医学、地理等の経験科学も著しく発展した。このように、日本の近代科学の醸成のベースとなった。4

蘭学が誕生する三番目の条件は、儒学自然観への克服である。蘭学の新興に思想の前提を提供した。

徳川時代、思想界に統治的な地位を占めているのは儒学の朱子学である。経典とした四書五経及び、朱子が経典に対する解釈は、絶対的な権威を持っている。更に、中国古代の陰陽五行説で、自然法則における「天道」と人倫ルールの「人道」を同じ原理として、現存の全ては合理的、永遠に変わらないことと考えている。自然の研究にもその思想体系の支配の下に置いていた。当然、それは西洋の実証的な科学精神と研究方法とは相容れない。このような儒学自然観は、西洋学術の移植と研究の支障となっている。  

儒学者は、西洋学術に対して批判な態度を取っている。彼らは、中国古代の文献と西洋文献を対照し、中国古代文献と合わせるものと妥協できる部分だけ承認した(例えば、向井元昇の『乾坤辩説』)。後に、自然科学の発展により、一部の人は、西洋学術の優秀さを認めるが、朱子学の自然観には超えない。

それから、古学派における徂徕学は、朱子学の「天人合一」という自然秩序観を打破し、全体的に西洋学術の移植、研究が可能となった。古学は、17世紀以来、商品経済が発達した社会環境に生じたものである。元禄享保時期、商品経済の発展により、武士階層の財政は貧困となり、農村が分割、都市の町人階層が新興となった。封建社会の現実矛盾に向け、朱子学は無能となった。それにより、数多くの朱子学者は、現実の生活から、次第に朱子学に対して疑い、次第に朱子学の批判者となった。古学を提唱し、孔孟の原作から儒学の真の意味を探るように、直接に儒学の古典を研究することを試みた。古学派は、朱子学が経典に対する思弁の解釈が、古代の聖人の意思を歪んだと批判した。経典の内容に対して客観的な理解が必要だと述べた。特に、荻生徂徕は、「後世の人は、古代の言葉を理解できないため、今の言葉を古代の言葉を理解すると、聖人の道は不明となる」と考えたので、「古代の言葉を理解することを大事にすべき。古代の言葉を理解するため、古代の文法等を勉強しなければならない」と強調した。彼は、古代の言葉と文法を経典研究の方法とすることを進めた。荻生徂徕はこの立場から、経典に対して研究し、結論を得た。儒学の本質は、「先王の道」である。「先王の道」は、古代の先王の行為の産物であり、「天地自然の道」と異なる。自然界と人類社会を同じ原理とする朱子学の思想を否定した。このように、儒学は、統治術の政治学として、自然への研究は政治領域から外された。思想体系の支配から解放されたので、西洋学術の移植、研究の道を開き、蘭学が日本での発展に思想的な前提を作った。

三 蘭学の日本における発展

近世初期に日本で伝播した南蛮文化は、幕府の禁教鎖国により中断した。鎖国の体制に、幕府は、対外貿易を長崎に設置した。そのため、鎖国期間、西洋文化への吸収は完全に断絶していない。西洋で唯一に日本と貿易をしたのはオランダ人であった。オランダ人を通して、新しい西洋科学の成果を輸入した。それと同時に、鎖国前の南蛮学の一部の天文、地理、医学等も密かに残された。一部の中国語訳の西洋学術書籍も、厳しい禁書制度の中から輸入され、知識階層の中、引き写し、研究した。特に、長崎には、「通詞蘭学」が生じた。それは、日本人の通訳が長崎のオランダ商館のオランダ人との長い付き合いから生じたものである。この時期の蘭学は「通詞蘭学」と呼ばれる。言葉の壁で、その内容は比較的に乏しい。それにもかかわらず、後世の本当の意味の蘭学の誕生に直接な条件を提供した。ここで特別に説明しなければならないのは、蘭学の先駆者の新井白石の功績である。新井白石(1657-1725年)は六代将軍の家宣が将軍を継ぎでから(1709年)、七大将軍家継がなくなった(1716年)まで、将軍の顧問として実際に政治の中心にいた。幕府政治をコントロールした重要な大臣である。有名な『西洋紀聞』、『採覧異言』等の作品を書いた。

『西洋紀聞』の中、彼はカトリック教教義の不合理性を批判した。教義は「でたらめで、弁論の価値もない」(下巻)とおもった。しかしながら、彼は、西洋近代の科学性を大賛成していた。「天文地理のことは、及ばないことはあるらしい」(上巻)、西洋学術の優秀性を認め、形而上のカトリック教と形而上の学術を分離した。このように、西洋文化がカトリック教と繋がる偏見を打破した。彼により、カトリック教は禁止されるべきだが、日本領土への脅かしではなく、その教義が日本の封建理論と相殺しているからだと思う。もし、カトリック教の観念を広げると、必ず父を殺す「叛逆の臣」が生じ、徳川幕府の統治に脅かした。そのため、禁教しなければならない。しかしながら、西洋の自然科学については、習わなければならないと思う。西洋の科学技術成果は、日本に対して必要なものであり、役に立つものでもある。新井白石の西洋観はその後の文化政策を示唆し、蘭学の新興に思想の基盤を作った。

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