中日女子体育教育に関する政策についての対照研究   ―1868-1912を中心に

 2022-01-19 11:01

目         次

一 はじめに 1

二 先行研究 2

三 中日女子体育教育に関する政策の対照研究 3

四 おわりに 14

致谢 18

中日女子体育教育に関する政策についての対照研究 ―1868-1912を中心に

桑晓锐20131322034

要旨:中国も日本もアジアの体育強国である。近代から、両国の体育が強大になっているにつれて、男子体育はもちろん、女子体育も急速に発展している。それは両国が取った一連の政策と深く関わっているように考えられる。その時期、中国革命が「反帝国主義·反封建主義」と提唱し、明治維新が「富国強兵、殖産興業や文明開化」という方針を打ち出し、中国と日本に巨大な変化をもたらした。中国社会と日本社会は上から下へと面目一新になってしまった。女性の地位が上がるにつれて、両国政府は女子体育の発展に大いに力を入れていた。本稿では中日女子体育をテーマに、1868-1912という時間帯に注目し、中日政府が女子体育を発展させるために打ち出した教育面の政策を述べ、その政策の相違を分析し、さらにその相違が出る原因を検討してみた。

キーワード:女子体育教育;発展;公布;政策;原因

一 はじめに

中国も日本もアジアの体育強国である。近代という時期から両国のスポーツレベルが急速に発展しているが、それは両国の政府が公布した政策とは深い関係があると考えている。その時期、中国で有識者が「反帝国主義·反封建主義」というスローガンを提唱した。日本で明治維新が推進され、日本政府が「富国強兵、殖産興業や文明開化」という方針を打ち出した。両国政府の改革が進むとともに、政治、経済、文化など各方面に関する政策が次々公表され、全社会に巨大な変化をもたらした。国民の体を強くするために体育に関する政策が公布され、両国の体育運動の発展にも積極的な影響を与えた。両国の体育事業が発展するにつれて、女子体育も大きな発展を遂げた。

本稿では中日女子体育をテーマに、1868-1912年に中日政府が女子体育を発展させるために打ち出した教育面の政策を述べ、その政策の相違を分析し、さらにその相違が出る原因を検討してみようと考える。

二 先行研究

資料をいろいろ調べたところ、国内外では女子体育政策についての研究が多くあることがわかる。

中国の場合、黎莎は『比較近代中日女子体育之興起』という論文では、中日女子体育に両国がどういう方法を利用して本国の女子体育を振興させるということを指摘した。范文は『中日女子教育比較研究 -女性就労問題の角度』という論文では、女性就労という角度から中日女子教育の问题を研究した。劉春燕と譚華は『晩清―明治時期中日学校体育之比較』という論文では学校体育を視点として同じ時期における両国が打ち出した異なる政策を比較した。その上、それを引き起こした原因を分析した。

日本の場合、川上雅之氏は『日本の体育体系に関する研究 lt;明治期gt;』という論文では、明治時期に日本の体育体系がいかに作り上げられたかということを論じた。渋川久子氏は『近代日本女性史』という論文では近代日本に日本女子権利のため優れた貢献をした有名な女性を記録した。曾我芳枝、平工志穂や中村有紀は『女性におけるスポーツ・運動実践―東京女子大学の体育を中心として』では東京女子大学を手本として女子体育を研究していた。

前の研究成果がたくさんあるが、近代の女子体育を、政策の相違という角度から考察する研究が少ない。したがって、本稿では中日政府が1868-1912年に女子体育の発展のために打ち出した政策の相違を研究対象にしてみた。

三 中日女子体育教育に関する政策の対照研究

1 1868-1912年における中国と日本

1868年から1912年まで、中国はまさに清末民初の時に当たった、時局が目まぐるしく変化した。この前、中国政府において上から下まで一連の改革をした、内憂外患こもごも至った中国にとって変革することは急務である。それから、中国では民主主義革命である辛亥革命が発生した。

1868年から1912年まで、日本では明治維新が進んでいたとともに、西洋文明も日本に衝撃を与えた。したがって、日本政府は開国・通商路線を選択したあとで、廃藩置県を公布し、明治維新を推進し続けていた。明治政府によるそれに伴う一連の改革をした。その範囲は経済、文化、教育や思想政策など多岐に及んでいる。

2 女子体育教育に関する政策

 2.1 中国女子体育教育

中国政府はこの時期では多くの政策を出しているが、これから、三つの段階を分けて公表された政策について述べてみよう。

2.1.1 1868-1875年

1868-1875年における中国では国の力を強めることを目標に、中国政府が多くの試みをやってみた。この時期、清朝の漢人官僚が近代化運動である洋務運動を推進し始めた。李鴻章、曾国藩などの洋務派は中心となり、欧米の軍隊組織と機械工業の導入を図った。

1861年から30年以上の洋務運動が清朝の国力増強を目指してヨーロッパ近代文明の科学技術を導入した。洋務派は中国各地に近代新式学校を建設し、科学・軍事・翻訳などの人材を育成した。また著名な翻訳機関には京師同文館(1862年設立)がある。こうした教育機関・研究機関が『万国公法』(国際法の概説書)など西洋の書物を翻訳・出版し、「西学」の普及に努めた。それは国民の思想解放を進める。

これから、中国女性が男性と一緒に平等に教育を受けられるという可能性は大きくなった。一方、中国女子体育教育に基礎を固めた。帰国した留学生は言葉の壁や体制の違いを乗り越えて優れた成績を収め、大学にも進んでおり、多くが後に中国政界・女子体育などで活躍した。たとえば、清末の啓蒙思想家である厳復は『進化論』など西洋近代思想を翻訳・紹介した。男女平等という思想の伝播に影響を与えた。女性が教育を受けられることを側面から促進した。

 2.1.2 1876-1910年

1876-1910年、洋務運動に対して康有為と梁啓超などの官僚が制度の根本的な改革を主張し、政治改革運動である戊戌政変を推進した。憲法制定、国会開設や学制改革などを行った。

この先に洋務派が行った洋務運動で打ち出した政策も中国女性の思想解放に働きがあった。ところが、旧体制を変えずに西洋文明のみを取り入れる洋務運動は根底から役割を果たしていない。それで、洋務運動に先立って、1898年(光緒24年、戊戌の年)の4月23日から8月6日にかけて、光緒帝の全面的な支持の下、変法派によって行われた政治改革運動である戊戌政変が行われた。戊戌政変が行われた間、若い士大夫1層である康有為・梁啓超・譚嗣同らの変法派は西洋の「天賦の人権・男女平等」という思想を積極的に伝播した。女性解放のため、彼らは日本改革のメリットを取って多くの教会女学校を創立した。女子教育を提唱していた。

1898年5月、上海で経正女塾が創立された。それは中国では「第一の女学校」と称された、中国女子学堂とも言われている。それは「中国女性の心身健康を健全する」ということをビジョンとした。それは中国女性の体育教育に大きい働きがあった。

1902年(光緒28年)に『欽定学堂章程』を公布された。1903年(光緒29年)に『奏定学堂章程』を公布された。

1907年(光緒33年)、清政府は公布した『女子師範学堂章程』と『女子小学堂章程』に女子体育の目標、要点や授業順序などを定められた。しかも、「徳育、知育や体育などの知識を明解させるべきだ」とはっきり説明された。中国の旧習である纏足も禁止された。それはさらに女子体育の発展を促した。

 2.1.3 1911-1912年

1911年(宣統3年)から1912年(民国元年)にかけて、中国で民主主義革命である辛亥革命が発展した。辛亥革命は「満洲駆逐、中華回復、民国建国、地権平等」というスローガンを提唱した。1912年正月、武昌に起こった辛亥革命により清朝は倒れ中華民国が成立した。アジアにおいて史上初の共和制国家である中華民国が誕生した。

中華民国は1912年1月9日に学部を教育部に改め,新政府の新教育方針による学制の準備に入り、1912年9月4日に新教育方針に基づいた『壬子学制』が公布された。この『壬子学制』は清時代の『欽定学堂章程』、『奏定学堂章程』と同様に日本の学制を模範にしたものといわれている。『学制』で女子体育教育にいくつかの内容をはっきり明示した。例えば、女子教育に体操は兵式体操が除かれていたコースを加えた。これから、中国女性の体育教育はゆっくりとどんどん発展している。

2.2 日本女子体育教育

日本政府はこの時期にも多くの関連政策を制定したが、次は三つの時期を分けてそれらの政策を述べてみよう。

2.2.1 1868-1878年

1868-1978年、日本の中央集権統一国家の建設と日本資本主義形成の起点となり、政治変革である明治維新が始まった。それも日本近代化の始まりである。明治維新における日本政府は「富国強兵」、「殖産興業」や「文明開化」という方針を打ち出した。そして、日本政府が日本社会に対して一連の政策を打ち出した。

1872年に日本政府は中央政府の行政機関とする日本文部科学省(MEXT)を設立した。それから、日本の日本文部科学省が近代学校制度に関する法令である『学制』を公布した。それは太政官より発された、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である。『学制』では適齢期の子供がかならず入学して教育を受けることになっていた。それに、「男女平等」という教育方針を提唱していた。『学制』に基づき、女性が健全な身体を作り、健康の増進や精神の修養を図るためなどに、日本政府は女子体育の授業コースでは特別に体操というカリキュラムを組む。日本女子体育の水準が大幅に上がった。日本女子体育の新しいページを開く。

2.2.2 1879-1895年

1879-1895年、日本社会は明治維新の中期に入った。明治維新の初期の努力を積み重ねた上で、各方面では改革がさらに深く推進され、女子体育の面でも、多くの政策が実行されていた。

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