漢服と和服の発展比較

 2022-01-19 11:01

目       次

一 はじめに 3

二 漢服と和服 4

三 終わりに 19

致 谢 23

漢服と和服の発展比較

梁钰杰 20131322036

要旨服装は民族文化の代表として、その裏に潜む国と民族の精神、価値観、審美情趣などを体現している。中国の伝統的な服飾といえば漢服だが、歴史の発展の過程の中で、漢服の発展が絶えた時代があった。しかし日本の民族衣装である着物はこれまで順調に発展を続けている。この要因として二つの国の社会背景と文化などによって現状の発展→に大きな格差があることがあげられる。今の日本社会では、着物は人々の日常的な服装ではないが、重要な休日には街で和服を着る人が多い。一方中国では、いつであっても、街で漢服を着た人を見かけることはない。本稿では、和服が発展を続け、漢服の発展が止まってしまった要因を明らかにすることを目的とする。

キーワード民族服飾;文化;王朝;漢服;和服;着物

一 はじめに

近年、「漢服運動」は中国において民間、特にネット上で風潮を巻き起こしている。その目的は漢文化を復興することである。漢服というのは中国の漢民族の伝統的な服飾である。歴史上全ての漢民族衣装の名称の総和として、漢文明核心の一つ礼儀文化の根となっている。一方、中国と一衣帯水の隣国である日本において、着物は日本本土の伝統衣装の呼称である。和服の起源は中国唐時代にさかのぼることができる。

服装は民族文化の重要代表として、その裏に潜む国と民族の精神、価値観、審美情趣などを体現している。歴史の発展の過程の中で、漢服の発展絶えた時代があった。しかし着物はいままで順調に発展している。この要因として、二つの国の社会背景と文化などによって現状の発展は大きな格差があることがあげられる。今の日本社会では、着物は人々の日常的な服装ではないが、重要な祝日には和服を着る人が多い。一方、中国では、いつであっても、漢服を着た人を見かけることはない。ではなぜ和服が今まで発展をつづけたにも関わらず、漢服の発展が行き詰ってしまったのだろうか。

漢服と和服についての先行研究が少なく、多くの研究はこの二つの服飾の種類の区別や漢服と着物についての民族文化の違いについて述べたものである。例えば、張(2007)は和服の種類をしらべ、和服は日本の民族文化や日本人の山水審美観と精神世界の体現であると述べた。また、魏と蒋(2012)はチャイナドレスと着物を比較し、和服は大和民族の自信を表すと結論づけている。さらに王(2010)は着物は大和民族の知恵の結晶であり、豊かな創造性を持ち、大和民族の歴史文化を体現していると述べる。本稿は先行研究を通じて、漢服と和服の発展、歴史を手がかりにして、二種類の服飾の発展過程、種類の差を比較する。

本稿では漢服振興のため、漢民族の発展過程の紆余曲折、現代発展の現状を探究する。そして和服の発展が順調に発展する原因、漢服現代発展の苦難の原因を研究する。双方の文化に切り込み、漢服と和服の歴史発展について調べて、漢服の未来の発展のために新しい措置を提供することが目的である。本稿ではまず始めに、漢服と和服の服飾起源を述べる。次に、すべての時代における衣装の特徴の変遷を分析し、和服が順調に発展した原因を探す。また、現代の漢服と和服の種類の比較を行う。そして、漢服と和服の現代発展状況について述べて、和服発展の過程を総括する。最後に、漢服と和服の将来の発展について予測する。和服の発展から得た経験を参考にし、漢服発展のために新しいアイデアを提供する。

二 漢服と和服

服飾発展の起源

服飾歴史の研究において、服飾の起源は一番重要な問題である。一般的に、服飾起源は人類の出現の過程に通じると言われる。服飾歴史の研究において、服飾の最初の作用は身を守ることである。服装の働きは体温を保ち、外部からの損傷と日焼けを防ぐことである。遥か太古時代、人類は洞窟に住んでいたが、ただ木の葉で暑い太陽を覆い、毒がある虫と蛇に刺されることと風雨を防ぐなどの手段を知るのみであった。時には獣を狩るため、動物の毛皮を着たり、動物の角を装着したりして、獲物に近づくことにした。その後次第にカモシカ、シカやキツネ、ウサギなどの動物の毛皮で体を包んで防寒着として用いるようになった。しかしもちろん、これは衣装の雛形でしかない。

漢服の発展起源

漢服は中国の漢民族の伝統服装である。しかし漢服という呼称は歴史上には存在せず、現代の学者が一般的な漢民族の伝統的な衣装を呼ぶ際に用いる用語である。「漢服」ということばを作り出したのは現代の漢服支持者であり、本稿では以下は漢服と略称する。

原始社会の漢服の実物は今まで発見されていない。しかし、現代まで5000年余りの彩陶器に上衣下裳1につながっている図案が発見されている。ここから、原始の服装の典型的な特徴は交襟、右衽、長帯と認定できる。実際に、この時代から清朝前までのもので出土した漢服の主な特徴は現代の漢服と同様に、襟があり、襟に続くおくみ(衽)、ボタンを使わず、帯で締めることにある。

夏商周の時代において、手工業が急速に発展して、服飾も空前の発展を遂げた。「商周の時、上衣2下裳の体裁制度と服飾制度を確立し始めた。」3と述べているように、人々は殷代に精緻な絹を作成できたのである。この時期から始まって、服装は体を覆う機能以外にも、上下尊卑の別を中心にする封建制度を体現するようになったのである。

1.2 和服の発展起源

和服は日本の本土の伝統服装の呼び方であり、この呼び方は明治時代から使い始めた。西洋の服の流入により、人々は洋服と区別するため、日本の伝統的な服装を和服と呼ぶようになった。

奈良時代、日本は唐の制度や文化を大いに導入し、天皇から庶民まで中国の文字などを学び、取り入れた。日本全国は中国文化を大きく真似ていたのである。元正天皇の命令に即して、日本全国の衣服は右衽に切り替えられた。右衽もまさに漢服の典型的な特徴である。平安時代になると、和服は徐々に日本独自の文化に合わせたものとなり、中国服装風格とは異なった、独特な風格が形成されるようになった。

歴代の服飾の変遷

上述のように、和服の起源は漢服であり、日本の歴史は中国の影響を大きく受けている。しかし両者にはやはり多くの差異がある。時代による、両者の差異はどこで体現しているか。

漢服の変遷

これまで、和服に関する文字記録が奈良時代に始まったことについて述べた。この時代、中国の服装が日本に導入され、それが吸収され、制度化された。そのゆえ、以下では着物と漢服の異同について日本は奈良時代から、中国では唐代から論述する。

日本の奈良時代には中国の唐朝期にあたり、そ→日本は中国文化を慕い、中国に多くの遣唐使を派遣した。これらの遣唐使は日本に帰った時、唐の礼儀文化、芸術、律令制度や唐代の服装を持ち帰った。これらは当時の日本に大きく影響した。当時の日本政府は唐の時代の服装の制度を真似て「衣服令」制度と制定した。この制度は庶民と王公の服装様式が場所によって不同であることを規定したものである。しかし、あの時着物ははっきりした等級意味があったが、様式や色彩も簡素なものであった。それと同時に、唐の服装は漢隋の遺風を引き継いでいたが、高度な政治経済や繁栄し盛んな文化芸術があったゆえに、唐朝はアジア経済文化の交流の中心地になった。唐の服装も鮮卑族と西域などの外来の影響を受けた。そのため、服飾は独特な浪漫主義の風格を形成した。唐代の女性の服装様式が非常に多様化していた。例えば小袖で短い上着、脇からのロングスカート等があった。あのとき女性の中で人気がある服装の特徴は露な半胸や肩、スカーフ、斜領・ゆったりした袖口であった。貴族の婦人は大袖服を好んだ。大袖服とは袖の幅は4尺余り(1.3メートルくらい)の服である。現代日本の和服の振袖はこの特徴を残したものである。

ちなみに外来服飾文化は唐宮に影響を与えただけでなく、当時の思想観念に対して大きく影響を与えた。女性は古代にはその地位が低かったが、封建社会の束縛を逃れ、宮廷の封建生活をはなれるために、反骨精神があった女子は男の服を着いた、男の人と肩を並べられた。このような新式の服装は十分に唐代女性の思想観念の変化を説明している。これは服飾の進歩だけではなく、中国の女性は自由を勝ち取るために苦難に満ちた一歩を踏み出したのである。

唐服の特色を絢爛と要約するなら、宋服の特色は高雅であるといえる。宋朝の服装は三種類に分けられる。一種は皇帝、官吏、皇后、貴妃や各級の命婦4の「公服」であった。もう一種は祭祀を執り行う時、庶民の吉凶服、「礼服」と言われたもので、もう一種は普段着である。宋代の官吏制度はほとんど前代の制度を踏襲した。それゆえ、官吏の服装も前世代に似ており、→参内用の服、祭祀用の服や平服に分けられている。服飾は普遍的に緻密で美しく、庶民の服装にも技巧がこらされていた。しかし朝廷は庶民百姓には絹繻緞で作った五色華衣を着ることを禁止し、質素主義を呼びかけたが、これらの規定に対して、庶民は少しも耳を貸さず贅沢な服を追求した。

宋代の男性の服装は在朝の官服以外、平服にもとても特色があった。平服というのは「燕居服」を指す。宋代の官吏と庶民の燕居服は形式上大きな格差はなく、ただ色にのみ具体的な規定があった。

隋代から、明にかけて黄色は帝王の禁色とされ、官吏の衣服に用いることはできなかった。また宋代の男性の服飾は布衣と羅衣があった。肌着は汗衣と言われった。一方、『宋代の女性の服装は理学思想や儒家文化の影響をうけた。』5

人々は典雅斬新な服飾を好み、色が繁雑であっても調和したものを求めた。宋代服装は隋唐時代の自由ロマンな風格から繊細で精巧、美しくて優雅な風格を持ったものとなった。芸術風格の上で、鮮明な対比を表していた。

平安時代初期の頃、日中の交流はかなり緊密であり、中国文化は和服に対して深い影響を与えた。しかしながら、平安中期ごろから遣唐使が送られることはなくなり、着物の発展が次第に日本独自の文化に基づいたものとなり、中国服飾と異なる独特のスタイルを確立し始めた。特にこの時期には、紋章様式と染色技術が大幅に発展したので、和服の模様はますます多様化するようになった。『鎌倉時代になって、衣服のズボンと裳が省かされ、袖口も縮小し始め、次第に現在の着物の雛形「小袖」を形成した。』6『別に、女性和服の上着と下着はまるごとの裳のようにつながる長衣類になる。』7

元の時代には、宮廷の服制は長期にわたって宋朝の様式をそのまま使用していた。元英宗期(1320年―1324年在位)に古制を参照し、天子と百官の上衣下裳、上衣がぴったりした、下裳が短い、首にひとつながりの珠玉をかけているという「質孫服」が制定された。これは漢民族とモンゴル民族両方の特徴を兼ね備えた服装である。しかし、元朝の服装は主にモンゴル族のものが主となっているので、本稿はこれについては多くは述べない。

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