井上哲次郎の尊皇思想に関するー考察

 2022-01-19 11:01

目 次

一、 はじめに 1

二、 井上哲次郎の生涯 2

三、 井上の儒学研究とその尊皇思想 3

1、井上の儒学研究と「国民道徳論」 3

2、 「国民道徳論」と尊王思想 5

四、 武士道からみる井上の尊王思想 6

1、 井上武士道論の成立過程 6

2、 井上の武士道論と尊皇思想 8

五、 「国民教育」論にみられる尊王思想 9

六、終わりに 10

致 谢 13

井上哲次郎の尊皇思想に関するー考察

张晓洁  20121322014

要旨:井上哲次郎は近代日本の哲学、思想界に大きな影響を与えた人物である。井上はその国民道徳論や、倫理宗教の提唱で知られているが、彼の思想には天皇へ最善の忠誠を捧げるべきだという天皇崇敬の思想があった。本論文では井上哲次郎の尊王思想を彼の儒学研究、武士道論、教育観から考察を加えてみた。彼の尊皇論は、当時の天皇統治の基礎を固める思想的なものとなった。また、天皇権威の強調や、天皇への国民の服従などの言論は、後の第二次世界大戦の思想的種ともなったのである。

キーワード: 井上哲次郎;尊皇;教育;武士道;儒学;国民道德

はじめに

1868年に明治天皇は維新を始めた後に「文明開化」、「殖産興業」、「富国強兵」を新しい国家を立てるための三つの目標を確定した。当時、社会改造に没頭していた有識人及び政治家たちは日本と世界との通路を貫通しようと努力していた。欧米の近代思想文化は日本社会になだれこんでおり、一時的に欧米の政治制度、科学技術及び思想文化を節度なく紹介・吸収してきた。日本では伝統を取り除くという旗を高く揚げ、自由及び民主を唱え、民権国家を築こうと煽り、相当の層には日本人の精神世界の各分野において衝撃を与え、一時的に明治近代文化運動の主流となっていた。皇権主義を精神の主体とした政治家及び有識者は次第に激しくなってきた欧米思潮の衝撃の下で、国粋主義の精神がひどくなり、「尊皇敬神」を核心とした。日本の皇権は国の最高な政治の力の代表として、明治の最初の20年余りの中に日本の伝統文化と外来の西洋文化との思想衝突およびこの衝突による社会の揺れに対し、政治的、思想的バランスの支点をずっと探し求めていた。しかし、文化思想の各派閥の間の衝突が日々に激しくなり、社会の揺れが日々に激化してきたので、皇権生存の緊迫性及び危機感は皇権は強硬な姿をもって国の未来の精神指導を説明し、国民の道徳方向を導くということに差し迫っていた。井上哲次郎についての先行研究として中国側では卞崇道の「論井上哲次郎儒学観」、「関於明治思想中武士道的一個考察」などの一連の論文があげられる。これらの論文では井上道徳論の理想主義的特色や、近代天皇の統治ための国民道徳論が論じられた。また、外国では久木幸男の「明治儒教と教育」、尹貞姫の「教育勅語与近代日本国民道徳教育的啓示」などの研究が代表的である。これらの研究で、統治者が「教育勅語」を利用して、天皇統治のため、日本国民に国体観念をつぎ込んたことを論じている。そのほか、龚穎は「蔡元培与井上哲次郎『本務論』思想比較研究」という論文の中で井上の尊皇思想に言及した。本論文では井上哲次郎の膨大な思想体系からその尊皇思想を取り上げて、儒学、武士道、教育の三つの方面から考察を加えながら、彼の尊王思想の全貌を明らかにしたい。

井上哲次郎の生涯

井上哲次郎元の名字は富田である、号は巽軒である。1875年から東京開成学校選ばれた、2年後卒业して新設された東京大学文学部哲学科を入った。1880年(明治13年)文部省編集局を入った、「東洋哲学史」の編集を行っていた。文部省の官僚主義の気配が濃すぎると思って、自分に適応できないで、1年後辞任した。そのあと、東京大学編集所が助教授を任せられた、「東洋哲学史」の編集を行って続いた。1884年(明治17年)、文部省からドイツへ哲学の研究をために派遣されていた。彼はドイツで六年間いる。1890年(明治23年)、10月に帰国した、その後東京大学教授を任せられた。翌年、博士学位を取得した。1897年 - 1904年东京大学の文科大学長を任せられた、学習院大学、東洋(トンヤン)大学、立正大学などに哲学を授業した。1923年(大正12年)退職して、東京大学名誉教授になった。その後、大東文化学部長、哲学会会長、上品会副会長、貴族院議員などの職を任せられた。1926年9月、「わが国の国体と国民道徳』という本禍を招いた。すべての公職を.取り除いた。以後作品ばかり作った。1944年(昭和19年)亡くなった。享年90歳だった。

明治維新後、日本はイギリスとフランスの哲学を移植し、大量に紹介するドイツの哲学。ドイツの古典観念論哲学と中国の儒学、インドの仏教などと結び付け、自分の観念論哲学システムを構築しようとする。彼の基本的な哲学思想は「現象がすなわち本当に」論。井上の観点、人は内在の直感、間接地、近似的には本当に観念を獲得することができる。井上の哲学は唯心論、ある哲学史家は、彼のようないくつかの観念論は西方のような純粋ではない。思想上、井上は国家主義の国民道徳論を提唱し、忠君愛国、忠孝一体。その具体的な体現は1891年の「勅語衍義序」の中に。彼は公言して、君主は気持ちですが、臣民は四肢百骸、孝は両親、友は兄弟、归根结柢は国のために、自分の体に国は、君のために犠牲すべきだ。

井上の儒学研究とその尊皇思想

1、井上の儒学研究と「国民道徳論」

儒学をもとにし、道徳哲学を築く過程で、井上は哲学の視点から日本の儒学思想史に対して系統を立てて、研究を行っていた。井上の儒学についての研究には二つの特徴がある。一つ目は、彼の研究は哲学の研究であること。これはまず西洋哲学との比較研究に表れている。例えば、朱子学派の倫理思想を研究した時、西洋の倫理思想との対比方法を用い、朱子学の倫理学説が西洋の理想派の道徳思想に類似しており、特にそれのライフサイクル論に類似していると指摘した。二つ目は、彼の研究には明確な目的があると、これは儒学の長所を取り入れ、国家主義の道徳論を作り上げるのに用いられることである。彼は儒学の長所及び短所を指摘し、東西哲学の融合の視点から儒学を読み直した。彼は儒学を高く評価したのは、儒学の中から基本的な倫理についての理論を探そうとしたからである。井上は儒学を評価する本当の意図は儒学を利用し近代の天皇制のために指導理念を確立することである。井上は当時の日本社会の思想及び学術界の状況にねらいをつけ、儒学を日本の正統な実践的道徳理論とした。日本の儒学思想史の研究を通じて、井上は学んできた西洋の哲学の知識をもって儒学を再解釈し、儒学を明治時代に新たなかたちで復活させた。「いかなる国も、いかなる社会形態、社会秩序が安定していてために、自分の国民道徳を確立しなければならない。道徳教育の方針を明らかにした。封建時代には、儒学のモラルハザードはかつて東アジア諸国の支配阶级にとって国民の道徳教育の主なツールであった。例外なく封建末期の新興階級の力の発展を縛った」6张兆敏は述べている。

井上哲次郎は文部省の命令で帰国し、1891年に「勅語衍義」を書いた。文部省はすぐに「勅語衍義」を全国に広め、実行した。「勅語衍義」を最も基本的なテーマの思想にまとめられる。日本社会は日々に欧米の文化思想の衝撃を受けており、こういう事態が深刻になれば、必ず天皇制の国体の利益に影響するため、井上哲次郎は日本の伝統儒学の中における倫理の観念をドイツのナショナリズムと結びつけ、「孝悌忠信」および「共同愛国」が日本国民の二大徳行であることと述べ、「愛国主義」の立場から一つの新たな日本精神を作ろうと試みたのである。

「勅語衍義」を考える場合、二つの点に注意しなければならない。第一に、井上哲次郎は従来の「孝悌忠信」に関する陳腐的な古い学説を放棄し、それを「共同愛国」と一体に結びつけ、墜落に陥った当時の日本を救う唯一の道であるとした。これは人々に目新しく感じさせるだけではなく、この解釈に現代価値観の意味を持たせた。第二に、井上哲郎は日本国民の精神を建て直そうと努力するに際して、その主旨は伝統儒学の倫理道徳であるが、解釈した通路はドイツのナショナリズムであった一方。この二つの理論は日本にとって、ともに「異国文化」であるため井上哲次郎にとって手を焼いた問題であった。そのため、十分な努力で日本の天皇臣民の愛国の本当の内容は日本形態の天皇統治という観念を築くことであるのについての強調に取り組んでいた。

1912年、井上哲次郎は再び文部省の依頼を受け、「国民道徳概論」7を編集し、「勅語衍義」8の中に述べた価値の原則に従い、全面的に「新儒学主義」の倫理観を展開した。本書は第二次世界大戦の前に、国民道徳論についての権威著作として国民教育に大きな影響を与えた。

「国民道徳論」と尊王思想

井上は「国民道徳概論」の中で一連の綱領的な観点を述べた。最も重要な内容は三つのポイントにまとめられる。第一に、日本精神、儒学教養、仏教信仰、西洋文化が日本国民の素質を育てるための基本的な一層であること。第二に、日本国民の道徳は単なる国民性道徳だけではなく、日本国体の道徳でもあるという概念である。これについて、井上は「実はにほんの国民道徳の起つて来た重もなる原因は、一種特色ある此国体であります。国体と一緒に結付いて居るのである。それで国体の性質を明かにしますれば、自然国民道徳といふものも了解し得られるやうになつて居ります。」7と述べている。この「国体道徳」は新たな倫理概念であり、当時の「日本立国」という思想の道徳層の基礎となった。「国体道徳」の核心原則は「日本の国体は万世一系の皇統を中心として来られるもの、日本は君主国にして民本主義を取れり、君主主義と民主主義との調和を保てるものにして其所に我国体の安全は存す」7ということである。第三に、井上は「国体道徳」の七項の標準を打ち出した。その中で祖先崇拝が述べられている。「祖先崇拝の精神が現在存續して居る。家族の組織に影響して来る。何う云ふ譯で影響するかろいふと、一つは祖先の血統を大事とするが爲めに祖先の血統に一番近いものが相續人となる。」7という。

以上からみられるように、井上の倫理思想は神道、仏教、儒学から天皇専制主義に有利な基本的な内容を吸収し西洋の倫理学を接着剤としなから作り上げ直された。その倫理思想は皇室を中心に、祖先崇拝及び家族制度を基礎に、ナショナリズムを核心に、忠君愛国及び忠孝一体を内容にしたものであり、これは国民道徳論を確立し、日本の近代哲学上のモラリティーの傾向をつくり、尊皇思想の基礎を固めた。

武士道からみる井上の尊王思想

井上武士道論の成立過程

明治維新後の日本は西洋の近代文明の衝撃に直面するとともに近代伝統の重い圧力を負っていた。新旧、内外等のそれぞれの要素が互いに激しくぶつけあっている過程の中に、天皇制国家のパーソナルアイデンティティー及びナショナルインテグレーションをどのように確立・確保するかのは明治維新後の歴代政権が直視しなければならない重大な課題であった。井上哲次郎の武士道論はこのような背景の下にできた学説である。

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