福沢諭吉の「脱亜論」について

 2022-01-19 11:01

目 次

一 はじめに 1

二 福沢諭吉の生涯 2

三 「脱亜入欧」の構想 3

四 「脱亜論」の内容 6

五 「脱亜論」の影響 8

六 終わりに 9

致 谢 12

福沢諭吉の「脱亜論」について

王旭 20121322001

要旨:福沢諭吉は日本近代の有名な啓蒙思想家である。日本を自由民主と軍事実力の強い国家にするようと努めているうちに、福沢諭吉は「脱亜入欧」を構想した。「脱亜入欧」は福沢諭吉よって設計された国家の道路と言われている。しかし、「脱亜入欧」構想下の日本の道はアジアのほかの国に巨大な苦痛をもたらした。福沢諭吉の「脱亜入欧」という思想の代表作は1885年3月16日に「時事新報」で発表された「脱亜論」である。本論文は「脱亜論」の形成過程と内容と影響について研究するものである。

キーワード:日本;福沢諭吉;脱亜論;脱亜入欧     

一、はじめに

日本の自由と民主の思想を研究する場合、やはり福沢諭吉に遡って考えなければならないと多くの学者は主張している。資本主義の自由と民主の思想を日本に広げることにおいて、福沢諭吉は確かに大きく貢献した。思想啓蒙に取り組んでいるうちに形成した「脱亜入欧」の思想は近代日本が資本主義の道に入るための指導思想と言えるほどのものとなった。「脱亜」はアジアの文化を全面的に否定することではなく、主にアジアの陳腐的、時代の流れにあっていない封建政治制度と社会のモデルから解放することを意味している。「入欧」は西方の民主政治制度と科学技術を日本に導入し、日本を文明開化の国になることを意味している。「脱亜論」は福沢諭吉の「脱亜入欧」という思想の代表作として研究されている。例えば、周頌倫は「脱亜論再思考」において「脱亜論」の内容、形成の過程、影響について分析した。また韓東育は「福沢諭吉与脱亜論的理論与実践」の中に福沢諭吉の生活の背景、「脱亜」思想が形成した理由、「脱亜」思想がもたらした影響について分析した。そのほかに、陳凱の「重義脱亜論」と今永清二「福沢諭吉の脱亜論」などの論文もある。これらの先行研究では福沢の「脱亜論」の内容自体を詮索した、一方、「脱亜論」が日本、中国および韓国にもたらした影響にも及んだ。本論文では以上の諸先行研究をふまえながら、「脱亜論」という思想の形成過程とその内容を再検討しながら、「脱亜論」は日本が侵略の道を歩むのにどういう影響を与えたのか、また平和と発展を時代のテーマにしている現在において日本は国際関係を扱う場合にも「脱亜論」の影響を受けているかどうかを論じてみたい。

二、福沢諭吉の生涯

福沢諭吉は日本の近代史上において有名な啓蒙思想家、明治時代のもっとも有名な教育家として「日本のボルテール」と呼ばれている。1835年、福沢諭吉は九州の大分県の豊前の中津藩士の家庭で生まれた。福沢諭吉は十八月の時に、父は病気のでなくなり、母に育てられた。身分の低い福沢諭吉は子供の頃、屈辱、軽蔑を受けていたため、封建的な身分制度を非常に嫌っていた。1855年に二十歳の福沢諭吉は適々斎塾に入り、緒方洪庵に従って蘭学を勉強し、また1858年に奥平藩の募集を受け、江戸に西洋学塾を開き、蘭学を教えた。その後、福沢諭吉は徳川幕府に用いられ、出使団の使節の随員として、欧米に三回訪問に行った。明治維新以後、福沢諭吉は官庁の仕事をやめ、民間で思想啓蒙の活動を展開し、「明六社」に参加し、自分が設立した西洋学塾を慶応義塾という名前に変え、つまり、慶應義塾大学という現在日本の有名な私立大学の前身である。福沢諭吉の教育思想は西洋の資本主義文明の伝播と日本の資本主義の発展に巨大な推進の役割を果たした。

福沢諭吉は啓蒙思想家だけではなく、征韓侵華論を唱えた者でもある。近代日本の最初の軍国理論家として、彼の一生は二つの任務があった。一つは日本を主権独立の近代化国家にすることであり、もう一つは、「朝貢の体系」を転覆し、中国にかわって日本を東アジアの権威にすることである。『学問のすすめ』のなかに、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」とあるように、最初は福沢諭吉は自由と民主を唱えていた。しかし、1875年に発表された「文明論之概略」の中では「弱肉強食論」をはじめ強調し、「実力が権利だ」と主張するようになった。この変化は彼の国際観が根本的な転換化があったことを表している。さらに1885年に発表された「脱亜論」の中では彼は自分が唱えた自由と民主を完全に忘れ、中国と朝鮮を貶し、それに、アジアから脱出し、西洋文明とともに進み退こうと呼びかけた。福沢諭吉は一生の中には著作が非常に豊富で、『学問のすすめ』、『文明論之概略』、「時事新報」、「脱亜論」および晩年の『福翁自伝』などがある。

三、「脱亜入欧」の構想

1その背景

1853年、アメリカの艦隊が日本の浦賀港に入ったことは、徳川幕府を二百年あまりにわたった鎖国の美しい夢から目覚めさせた。歴史上「黒船来航」と呼ばれている。「黒船来航」の後、徳川幕府の封建制度が崩壊以前の状態になり、列強の勢力も迫り、西洋の科学技術と大砲の技術も日本社会の注目を集めた。一部の有識者は蘭学に興味を持つようになり、蘭学を研究し、蘭学を教える塾を作った。進歩を求める福沢諭吉は社会の流れに従い、適々斎塾に入り、当時に伝統的な漢学に排除されていた蘭学を学び、蘭学を通じて西洋の文化に触れた。蘭学を勉強した福沢諭吉はさらに自分の思考方式を変えた。彼は漢方医学の経典著作の『傷寒雜病論』を殺人の本と呼び、遅かれ早かれ消そうと表明した。そのことから見れば、当時の福沢諭吉は中国からの学問がすこしも役が立たなくて、蘭学の発展を障る封建てき迷信たりと信じていた。それに、彼は中国が当然に保守的、時代遅れであると思った。つまり、深い儒学の素養を持っていた福沢諭吉は、西洋の近代科学から影響を受けてきたのである。

福沢諭吉は25歳の時に英語をはじめて勉強し、その後アメリカを2回訪ねた。当時、日本国内の情勢は揺れていた。「安政五カ国条約」の中に港を開くのに関する一部の内容が実施できなかったため、徳川幕府は各国と直接に交渉するために特別に欧州に使節を派遣した。福沢諭吉はその一員としてこの旅にも参加した。アメリカに2回、ヨーロッパに1回訪問し、実地に見聞したことで、福沢諭吉は自分の目で日本とぜんぜん違う文明の社会を見た。欧米の民主と平等の政治制度、先進的な科学技術、強い軍事の実力などは彼に、巨大な思想の衝撃を与えた。彼は封建的、陳腐的な清王朝の政府と愚かな中国人は欧米文明国家とは雲泥の差があると思った。彼の心の中では、中国の地位がさらに低くなった。欧米文明社会から与えた衝撃も彼に日本を反省させた。彼は唯我独尊という狭い意識をやめ、国際的往来の視点から日本の近代化発展の問題を考えようと主張した。彼は、港を開くこと、国を開くこと、欧米の先進的な文明制度と技術を学ぶことを主張していた。彼は『唐人往来』のなかでは「欧米などの国は国を開くことを要求するのは日本を盗むのではなく、貿易をし、日本と緊密友好の往来を行うためなので、日本は欧米各国との友好往来に力を尽くすべきである」と述べた。彼はアヘン戦争が起こった原因は無鉄砲で怒りっぽい林則徐が直接にアヘンをすっかり焼けたからであり、中国人は道理を分からなく、世界の発展の情勢も分からなく、自業自得の結果であると考えた。ここからみれば、彼はアヘンの貿易を行っていたイギリスが罪悪だったと思っていなくて、逆に中国を盲目的に外国を排除するマイナスな教材にした。彼は「日本は教訓を汲み取らなければ、最後に中国のような苦境に陥るかもしれない」と述べた。このことは西洋の方法論は福沢諭吉の是非を判断する基準になったことを表している。伝統的な儒学と西洋学の知識背景を持っている福沢諭吉は東西の政治と文化などの面に対しての態度に傾きになって、福沢諭吉の思想に「脱亜入欧」の糸口が見えるようになった。

2「脱亜入欧」構想の形成過程

明治維新以前の日本は歴史が変革している時代にあり、福沢諭吉も欧米文明にさらに接触し、日本の発展の方向を見つけようと努めた。

1866年、福沢諭吉は西洋を紹介する百科事典の『西洋事情』を著述した。彼はこの本において、西洋の地理、科学技術、教育、経済などの内容を詳しく紹介した。この本を書いている間に彼は西洋文明に対していっそう深く理解し、日本と西洋の差がさらに分かった。1872年、福沢は『学問のすすめ』を発表した。この本で、彼は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という平等の宣言を提唱し、さらに人と人の平等を国と国の平等に上昇した。「自国の富強なるいきおいを持って貧弱なる国家へむりを加えることは、いわゆるりきしがうでの力を持って、病人のうでを握り折るにことならず、国家の権義において許すべからざることなり。」という。彼は人と人の間では「自然法」によって互いに等しいので、国も真理で国の主権を守るべきであると主張していた。当時の福沢諭吉は相変わらず西洋の国々が宣伝した平等に限りない幻想を持っていた。彼は世界上の国はすべて仁愛的、正義的な国家であるからには、中国が遭遇した不幸はすべて自分の原因であると考えていた。彼の心のなかには西洋文明史は一切を展開する標準であるという考え方が見えた。

1876年、福沢諭吉は『文明論之概略』を発表した。この本において、彼は「西方の近代文明を目標とする」と書いた。彼の目には、西洋文化を勉強するのは愛国で、ほめるべきことである。彼から見れば、日本は封建的、時代遅れのアジア文化を捨て、西洋文明の目の前に日本文化の独特性を立て、日本は西洋文明の国家に上昇するために覚悟をすべきである。しかも、何千年の封建の伝統を持っている中国に比べると、日本は西洋の文明を汲み取り、開化した国になりやすいと彼は考えた。逆に、中国は現在時代遅れで半開化の国だけではなく、西洋文明を勉強しても、必ず日本に遅れるに違いない。そのため、日本は明治維新を通じて開化文明の国になってから、中国にとり替わりアジアのボスになり、アジアの近代文明の発展の指導者になる。もし中国と朝鮮は日本の指導に従わなければ、日本はアジアの国としての身分をあきらめるしかなく、西洋各国の方式でアジアに応対する。『文明論之概略』の最後に、福沢諭吉は「国と国との交流について、平時は互に利益を争ひ、矛盾があれば暴力で解決する。」と書いた。このことから見れば、国際関係に対しての認識について、彼はすでにもともと唱えていた「平等」の思想を捨てた。

1875年、日本の反対派は江華島事件を起こし、「黒船来航」のまねをし、無理に朝鮮の門を開き、「江華島条約」を締結した。これから、日本は朝鮮に対してさらに虎視眈眈になってきた。1882年、朝鮮の壬午事変の何か月前に、「朝鮮の交際を論ず」と発表した。それに、日本もイギリスのように朝鮮に住んでいる日本人を守るために朝鮮で駐屯すべきであると主張した。1882年7月、朝鮮の壬午事変爆発した。この反日事件が爆発したあと、彼は直ぐに「時事新報」で連載を載せ、兵を派遣し、武力をもってこの事件に対応すると主張した。彼は「北京攻略」を発表し、一気に封建的な東洋の権威である中国を覆そうと主張していた。このことから見れば、もともと唱えた「真理」の国際関係の理念は武力外交に替わられた。壬午事変の後に彼は「時事新報」に「東洋の政略果たして如何せん」という文章を書いた。彼は一国の私利を放棄し、アジアの団結と進歩を図ると主張していた。しかし、福沢諭吉が述べた東洋の政略は「西洋が東洋に対しての干渉を排除し、東洋に日本を中心とした西洋式の植民体系をたて、広いアジアは日本を太陽の沈まないイギリスのような大量の海外殖民地を持っている国にすることができる」と捉えれるだろう。この目標をかなえるために、開化した日本は武力で中国を覆し、中国にかわり東アジアの権威になる。1884年になると、福沢諭吉が支持した朝鮮の開化派の金玉均等は甲申事変を起こしたが、中国の干渉ので失敗になった。甲申事変の失敗は福沢諭吉が中国を敵視させ、アジアを脱出する方向に変えることを加速させた。

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