『中国旅行記』から見た芥川龍之介の中国観

 2022-01-19 11:01

目         次

一 はじめに 1

二 芥川龍之介と『中国旅行記』について 2

三 当時中国社会の背景 3

四 『中国旅行記』と芥川龍之介の中国観 4

五 終わりに 8

致 谢 12

『中国旅行記』から見た芥川龍之介の中国観

赵娟 学号20121322020

要旨: 芥川龍之介は中国と深遠な淵源がある大正時代の小説家である。彼は一生に中国の歴史と文化に関係がある多くの作品を創作した。言うまでもない、中国のクラシックは彼の創作に深刻な影響が出る。『中国旅行記』は芥川が中国へ訪問した後書いた紀行文である。彼は中国社会の現実、旅行の途中の見聞を詳しく記述した。今度の旅行は芥川龍之介に真実な中国を展示して、彼が憧れていた中国と強烈な衝突を生じて、その上彼の中国観を変えつつある。本論文は芥川龍之介の『中国旅行記』の「上海游記」、「江南游記」、「長江游記」という三つの部分を取り上げて分析を行い、芥川龍之介の中国観の変化を具体的に検討してみる。

キーワード:芥川龍之介;『中国旅行記』;中国観;変化;新しい階級

一 はじめに

1920年代、芥川龍之介は日本の有名な作家として四ケ月中国へ訪問していて、帰国した後続々と『中国旅行記』を完成した。この旅行記の中で、芥川龍之介は中国社会の現実、中国の貧困と当時の不穏な情勢を風刺する。芥川龍之介にとって、今度の海外旅行は、中国古典の印象を変えて、一新した理解と認識を生み出す。

『中国旅行記』は芥川龍之介の最も有名な作品ではなくて、一冊の中国社会の状況を記述する旅行記である。芥川の『中国旅行記』は出版されて以来、日本人にとって古い中国を知るには、必ず読む本になる。中日両国の学者も芥川龍之介の『中国旅行記』に対していろいろ研究した。中日両国は先行研究の成果をまとめてみる。今中国の学術界で主に二つの観点がある。一つは巴金に代表された学者の観点である。彼らは芥川龍之介が中国の現状に直面した時中国人に蔑視の態度と否定的評価に不満を表す。もう一つは魯迅などの学者は芥川龍之介が中国を愛して、同時に当時の中国と中国人の遭った苦難に同情を持つと考える。日本の文壇では、日本の学者が芥川の『中国旅行記』に対して評価が高くなく、二つ違う意見もある。一つはこの中国行から次第に心身が衰え始め、彼の1927年の自殺を引き起こすかもしれない。二つ目は彼は四ケ月ほど中国にいたが、主に自然の風景と名勝を報道して、中国の政治と社会に対する報道が足りない。

本論は芥川龍之介が書いた『中国旅行記』を中心にして、『中国旅行記』及び相関論文を読むことを通じ、中日両国の学術界で違う見方をみとめてみる。二十世紀芥川龍之介に代表された日本知識人の中国観を求めていく。

二 芥川龍之介と『中国旅行記』について

 今、中日両国は芥川龍之介と『中国旅行記』について、いろいろな方面で研究を進めていく。まず、芥川龍之介のことを簡単に紹介する。 

 芥川龍之介は(1892-1927)日本大正時代に著名な小説家である。彼の作品は、短篇小説が多く知られている。芥川は全力で小説を創作して、短い一生で、彼が書いた作品150編よりも多いものがある。彼の早期の作品は主に『羅生門』、『鼻』などの歴史物があって、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多く、『蜘蛛の糸』、『杜子春』といった児童向けの作品も書いている。後期の作品は『河童』、『歯車』などの生死を関する作品である。晩年の代表作『河童』は、河童の世界を描くことで人間社会を痛烈に批判しており、当時の人々に問題を提起した。芥川龍之介が死の8年後、親友としての菊池寛1が芥川を記念するため、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」を設けた。今まで、芥川賞はずっと日本で最も有名な文学賞の一人である。

 『中国旅行記』は芥川龍之介が海外視察員として中国を訪れた時期で書いた本である。1921年3月から7月までの4ケ月間、芥川龍之介は中国各地を訪問した。帰国後、大阪毎日新聞に連載された紀行文を中心にまとめられたのが『中国旅行記』である。この旅行記は「上海游記」、「江南游記」、「長江游記」、「北京日記抄」、「雑信一束」から成っている。芥川龍之介は幼い頃から、中国古典文学を広く読んでいた。その上芥川龍之介は自分自身を記した伝記の中で、彼が大好きな中国の読物は『西遊記』と『水滸伝』である。中国への旅は、芥川龍之介は初めて外国に行って、同時に唯一の海外の渡航チャンスである。芥川龍之介はこの中国旅行に期待を胸に膨らませていた。

三 当時中国社会の背景

 『中国旅行記』を分析する前に、先に当時中国社会の背景を紹介してみる。

 中国近代史は1840年に鴉片戦争から始まったのである。特に鴉片戦争後、清政府とイギリスは不平等条約「南京条約」を締結した。第一の不平等条約「南京条約」から、その後ほかの列強と多くの不平等条約を締結した。例えば「天津条約」、「北京条約」、「馬関条約」など。中国はかつての大国から半殖民地、半封建社会に成り果てる。

 亡国の危機に直面する時、中国人民は国の危機を救おうとする道を探り始めていく。清政府の統制階級は西方に向けて勉強するという近代化運動―洋務運動を展開した。農民階級は大規模な農民運動を太平天国によって始めて起こした。1894年、清政府の洋務運動に対して、中国の民族資産階級は制度の根本的改革を主張して政治改革運動を推進した。それは戊戌変法である。日本を手本にした政治改良運動は依然失敗に終わった。1911年、辛亥の年に中国人民は清朝を倒して中華民国を樹立した。1915年にパリ会議において外国との外交が失敗に終わり、また当時に中華民国大統領袁世凱と日本政府は二十一条を結ぶことに至った。この二つの事情は中国民衆の反日の運動を引き起こした。

この上述した部分は、中国近代の八十年の状況である。1921年、芥川龍之介が中国を訪れる時、中国は山河が破砕して、すでに没落した半殖民地半封建社会になった。しかし、1868年に明治維新以来、日本は資本主義的工業国家の建設をはかった。このような状況の下で中日両国の距離は言うまでもなくはっきりしている。

 1915年から、中国の無産階級は新しい階級として歴史の舞台に登った。芥川龍之介が中国へ行く1921年までに、中国のプロレタリアが急速に発展していた。芥川龍之介が中国知識人と交流を通じて、中国の現在と将来に不安を感じていた。帰国後、芥川龍之介が慎重な態度をもって、中国の現実を記録していた。それは『中国旅行記』である。

四『中国旅行記』と芥川龍之介の中国観

 1920年代ごろから、中国大陸への旅行熱が巻き起こっている。当時にたくさんの日本作家は日本から中国にやって来た。芥川龍之介に代表された作家は中国を訪れて、帰国後『中国旅行記』という紀行文を書く。今、私はその中の「上海游記」、「江南游記」、「長江游記」という三つの部分を取り上げて分析を行い、芥川龍之介を代表する日本知識人の中国観を窺う。

  1. 「上海游記」

 上海は芥川龍之介が中国に到着する第一駅である。だから上海の旅は彼に深刻な印象を残す。芥川龍之介が記述する旅行記の中で、怪しげな人相があって不潔な車屋に会って、酔っ払いの水兵連が床に落ちた薔薇に踏むのを見て、病院で空いっぱいの黄塵及びぼろぼろな亭と病的な緑色を広げた池を見ることがある。これらの場面は芥川龍之介が当時の社会の状況に焦点を合わせる真実に書き記していた。これは芥川龍之介が初めての海外旅行の印象である。この中国へ旅行する前に、作家が書物から想像する中国を得た。しかし、この旅行は芥川龍之介の視線が現実に転向し始めた。例えば、たった船を下りたばかり、彼が恐れられて不潔な車屋、貪欲な馬車を駆る人と厚顔無恥なお婆さんは上海及び中国の初めの印象である。「上海游記」に古い上海の姿は完全に再現された。作家が風刺する言語で乱雑で賑やかな上海のことを書いた。同時に側面から芥川龍之介が中国の社会に対する失望が見られた。

 「上海游記」から大量の詳細を探し出した。この本の中で芥川龍之介は舞台を西洋公園にして書く。過去に上海を中心とする旅行記と小説に上海は常に遊園地を書かれる。しかし、芥川龍之介は独特な視角で中国人取り分け日本人へ違う上海を再現して見せた。作家が書く上海は遊園地がないだけでなく、この世の楽園もない。この地方は西洋の列強及び日本などの国家が争奪する焦点になった。清政府の統治の下で、中国の人民は苦しい生活をしていた。だから不潔な車屋のような人は当時の上海の縮図であるばかりでなく、近代中国社会の縮図でもある。これは中国社会の背景である。一方で、日本は1868年から資本主義国家を建立して、絶えず発展して強い国家になった。芥川龍之介が大阪新聞社の海外視察員として中国を訪れる時、彼は強い優越感を抱いた。この優越感を持っているからこそ、彼を失望させる中国の社会に非情な批判をした。当時の中国の知識人にとって、こういう批判は民族自尊心を傷つけた。巴金を代表する知識人はこの作品に非常に低い評価を与えて、多くの人が否定的意見を持っている。当代の中国人にとって、私たちは中国の歴史と現実に向き合わなければならないと考える。私たちは芥川龍之介が描いてくださった一つ一つの場面に感謝すべきではないかと思う。それは中国と中国人が遭った苦難に対して客観的な記録ができたからである。私たち中国人にとって、これは忘れがない歴史である。

 芥川龍之介は上海に在り、中国の芝居を見ると共に、交を中国に代表する人物に結びていく。例えば、章炳麟2。芥川龍之介が章炳麟を訪れる時、二人は章炳麟の書斎で中日両国の関係について話し合っていた。この面会は彼が詳しく書いていた。「上海游記」の第十一章中で「現代の支那3は遺憾ながら、政治的には堕落している。不正が公行している事も、あるいは清朝の末年よりも、一層おびただしいと言えるかも知れない、学問芸術の方面になれば、尚更沈滞は甚だしいようである。」4と言った。この時に芥川龍之介の視線は中国の文化に注目するだけでなく、政治と社会の問題にも目を向け始めた。上海に芥川龍之介は自分の目で小説の中の中国を見て、更に上海が西方の殖民地として特殊な問題を抱えると気が付いた。

  1. 「江南游記」

「上海游記」は芥川龍之介が古い上海の全貌を真実に記録することだ。「江南游記」は彼が中国の文化と社会に対して深刻に憂慮を表すものと言えよう。この江南の旅は主に杭州、蘇州、揚州、南京などのところを見物し、特に杭州でいろいろ見回った。芥川龍之介は杭州で西湖、霊陰寺、岳飛の墓、秋瑾女史の墓へ行った。

 杭州の西湖といえば、「江南游記」の第六章から第十一章まで、芥川龍之介は杭州に見聞きしたことを書いた。「水は思ったより深くはない。蘋の漂った水面から、蓮の芽を出した水底が見える。これは岸に近いせいかと思ったが、どこまで行っても同じ事らしい。まあ、大体の感じを言うと、湖水なぞと称えるよりも、大水の田圃に近いくらいである。聞けばこの西湖なるものは、自然なままに任せたが最後、たちまち干上がってしまうから、水を外に出さないように、無理な工面がしてあるのだという。私は船縁によりかかりながら、その浅い水底の土に、村田君の杖を突っこんでは、ときどき藻の間に泳いで来る、はぜのような魚を嚇かしたりした」5

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