「鉄道ファン」から見る中日両国の鉄道文化

 2022-01-19 11:01

目     次

一 はじめに 1

二 「鉄道ファン」について 2

三 中日両国の鉄道文化の分析 3

四 終わりに 9

致 谢 12

「鉄道ファン」から見る中日両国の鉄道文化

冯蕾 20121322031

要旨:日本は、中国と同じ時期に鉄道が現れてきた。長い間、日本鉄道は駅弁、テーマ列車、特色な乗車券など日本独特な鉄道文化を形成した。「鉄道ファン」は日本鉄道文化の特別なグループで、中国と比べれば巨大な格差がある。本稿は、中日両国鉄道の歴史、政策、周辺文化からこの格差が形成した原因を探し、中日両国の鉄道文化を探求する。

キーワード:鉄道ファン;国鉄;差異;中日;鉄道文化

一 はじめに

 日本はペリー来航以来、鉄道が現れてきた。鉄道の歴史とともに始まったといわれて、鉄道に関することを趣味の対象とする行為の歴史は古い。ただし明確な「鉄道趣味人」、即ち「鉄道ファン」という言葉の登場までには少しばかり時間がかかったようだ。野村総合研究所のオタク市場予測チームによる「オタク市場の研究」(東洋経済新報社)によると、日本の鉄道ファンは約3 - 5万人、市場の規模は40億円と推定されている。鉄道ファンは日本経済に尽くした。日本の国民は列車に深い感情を生活の中に溶け込んで、各種の文字と映像中で生存して、日本の民族文化の一部になった。

しかし、日本の隣国として、中国鉄道の発展はすごく速いが、鉄道に巡ってそれに関する文化産業はまだ発展していない。中国では、「鉄ちゃん」あるいは「鉄道ファン」のような人はまだ少数派である。数多くの中国人は鉄道のことに全然興味がない。このような差別を引き起こす原因は何だろうか、本稿はこの問題について討議する。

二 「鉄道ファン」について

 「鉄道ファン」とは、鉄道、またはこれに関する事象を対象とする趣味を持っている人のことである。英語では「rail-fan」といい、日本語でも『レールファン』という表現がある。「鉄道ファン」は最も一般的かつ無難な呼称である。昭和30年代ごろまでは「鉄道マニア」という言葉を使った。しかし、「マニア」という言葉はだんだん嫌われるようになり、代わりに「ファン」この単語を使うのが広まった。

 1825年、イギリスは初めて蒸気機関を利用する鉄道が実用化された。約30年後この技術は、幕末(1853年)の日本に蒸気車の模型として到来した。鉄道のことを趣味とする行為の歴史は古く、大体鉄道の歴史とともに始まったといわれてもいい。しかし、本当の意味上の「鉄道趣味人」の現れるまでには少し時間がかかった。最初、詩人の宮沢賢治は鉄道に興味を持ち、作品の中に鉄道の描写が多く用いたが、それと「マニア」の現代的な意味はいささか異なる。しかし、当時の庶民の一般的な生活水準を考えると、鉄道趣味は贅沢なことである。だから、今のような一般庶民のなかに鉄道趣味が浸透するのは、さらに1970年代以降である。

今の日本では「鉄道ファン」と言ったらさまざまな種類がある。例えば、写真を撮ることに熱中な人は「撮り鉄」と呼び、鉄道に乗ることが好きな人は「乗り鉄」といい、鉄道模型が好きな人は「模型鉄」であり、各駅のスタンプを集めることを愛する人は「押し鉄」である。その「鉄道ファン」たちは鉄道についてある独特な分野にすごく熱心を持って、この分野の専門知識を持つ。彼らのその嗜好は一般人の理解の範囲を超えるから、「それ、本当に楽しいの……?」という質問もしばしば聞かれることがある。「鉄道ファン」が集中して、特定の対象に固執して探求するため、ある程度に人との付き合いの方面には劣勢になり、いつも他人が「ああ、御宅族だ!」というような表情がすぐ現れる。そういうわけだから、大多数の「鉄道ファン」は男性である。かつ、1990年代以前は女性の数は少し、現在は女性ファン、若い年齢層の女性ファンの人数も一方増し、まとまった数がいる。年代層は青少年から高齢者まで幅広い。幼年期の子供は、多くのが鉄道などの乗り物に興味を示すが、徐々に他の多様な対象に関心を移していく人々も多い。しかし、一部の人々は乗り物の中でも鉄道に対する興味を特に深めていき、「鉄道趣味」と呼ばれる趣味を楽しむようになる。なお、鉄道ファンが父親・母親となった場合にも、子供にこの趣味を教え込むこともある。新ジャンルとして「ママ鉄」と言うジャンルがある。

三 中日両国の鉄道文化の分析

1 誕生と歴史

1.1 日本鉄道の誕生と歴史

 「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり……」、大和田建樹は『鉄道唱歌』にそう言った。日本の鉄道史はまるで一部の鉄道改革史である。

 創業期の日本鉄道は、明治政府の殖産興業政策の影響を受けて、明治5年に日本第一の官鉄(国鉄)新橋-横浜間の鉄道が開業し始まった。明治10年代以降、民間資本も鉄道に参入、官私協働して鉄道の建設を進める。そして、経済成長に伴う、軍需輸送等の増大する需要を満たすため、明治39年「鉄道国有法」が公布したが、主な鉄道幹線は国営で、地方鉄道は民営として効率化を図る。大正時代になると、日本全国の鉄道網が概成したが、鉄道は大衆化な交通機関になった。また、大正時代の経済活動の活躍することと国民生活の定着することとともに、この時期の鉄道は発展期に入った。したがって、昭和初期の経済不況を原因に、日本の大陸進出など国力伸張ための政策に伴い、日本鉄道は昭和10年代に戦前の全盛期を迎えた。その後、戦争が始まって、戦局が悪化したため、国・民鉄も戦災による輸送混乱を招いた。敗戦後、復員・引揚の輸送、占領軍の輸送など併行するため、鉄道は戦災復旧に努める。戦災の時、インフレ嵩進もあり、運賃値上げたり、物価の上昇に追いつかず鉄道の経営収支は悪化した。経営を立て直すため、日本の国鉄は国の直営から公共企業体に改組され、即ち、国鉄は国営から国有鉄道になった。それと同時に、民鉄も会社の再編成が進んだ。30年代から、日本は経済高度成長期に入った。経済成長による需要増加したり、道路の整備が急進したり、また自動車の普及さらには国内航空の急速な発展があり、輸送市場は鉄道にとって厳しさを増す。鉄道は輸送力の増強と共に経営全般の近代化・効率化に迫られた。

 1.2 中国鉄道の誕生と歴史 

 日本鉄道の誕生とほぼ同じ時代、中国の鉄道も起業始めた。百年以来、中国鉄道の事業は2つの根本的な性質の異なる社会を経験した。政治面と経済面の原因から、中国鉄道の発展の過程は必然的に日本鉄道と全然違う運命と前途に遭うことが決定された。

 清朝の政府は中国が自分で鉄道を敷設することを許さないけど、外国列強が中国で鉄道を建造する意図はないことに等しくない。後者は中国で鉄道を敷設すると主張したのは、彼らが中国の土地が広くて物産が豊富だという優勢が気に入った、広大な略奪の将来性があって、また鉄道を敷設したことが彼らの侵略する策略の変化を体現するため、その目的は「新しく敷設する道路と交通機関で昔の戦争を取り代わるかつ領土を併呑する」という政策を達成する。それで、1876年、イギリスの資本主義集団のコントロールしたもとで、中国第一の鉄道線路の淞滬鉄道3が開通した。5年後、清政府の洋務派の主張したもとに、1881年に唐胥鉄道4を敷設し始めた。それによって中国自主的に鉄道を敷設する序幕が開いた。しかし清政府の無知と鎖国政策の影響で、初期鉄道を敷設した抵抗力がとても強い、1894年日清戦争の前夜まで、この20年間にただ約400数キロメートルの鉄道が敷設した。

 1894年後、帝国主義の各国は中国の領土で強行して鉄道を敷設と直接経営した。1905年に至って、ちょうど英、露両国が激烈で中国華北の路権を奪い合う時に、清政府は京張鉄道を敷設するのを決定した。京張鉄道は中国自分で募金し、自らで設計し、測量し、工事をした第一の鉄道であった。京張鉄道の敷設は中国鉄道建造史に新しいページを開いた。1949年前まで、中国鉄道の事業は半封建半植民地の性質が付いている。その敷設は、すべて帝国主義、封建主義と官僚資本主義のコントロールしたもとに発展したり経営した。その発展も経営もうす暗くゆっくりである。

 新た中国が成立したあと、中国の鉄道は中国共産党と人民政府の指導したもとで、いろいろな建国方針を堅持して、70年代後期の改革開放政策をやり遂げて、中国鉄道が徹底的に昔の半封建半植民地の性質を変えて、その上にまだかつてない輝く業績を得た。

 

2 国情と鉄道政策

 2.1 日本の国情と鉄道政策

 日本国は島国で、領土は本州、四国、九州、北海道4つの大島と3900の小島から構成する。このような基本的な国情は日本鉄道の形態を決定する。日本国の鉄道は1949年に官営事業を公共企業体に改造した以来、ずっと「国民の足」で気取る。「日本国有鉄道法」第一条の規定によって、国鉄の設立する目的、一方では公営事業の経営形態を通じて望んで、経営の自主性、効率性に達して、それと同時に公共の福利を増進する目的を実現する。だから、日本の国鉄は公共性と企業性重の性質がある。1987年、日本鉄道が改革した後、国鉄は地域によって6社の旅客輸送会社(JR北海道、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR四国、JR九州)と1社の貨物輸送会社(JR货物)に分けられる。各鉄道会社の間に競争して、日本国鉄の経営が改善させ、輸送の効率と収益も高く向上させる。

 それと同時に、日本の鉄道会社はその会社員に対して管理が異常に残酷である。日本「毎日新聞」の報道によると、JR列車の運転手は一度規定を違反する操作すれば、必ず停職処分に与えて、「日勤教育」を受けなければならない。その上「日勤教育」は列車員の出勤する所で、その運転手一人が「反省テーブル」のそばに座って検討書を書いて、みんなに彼が間違いをしたのを知らせる。また今後の月給、夏季賞与と年末賞与も、昇進も影響を受けなければならない。もしスピードの制御がよくないで列車を延着するのを起こした場合、たとえ1分だとしても、すべてとても厳しい処罰を受ける。かつ、日本国土交通省「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」によって、時間と部分を根拠として、1台の新幹線列車に対して日検査、交換検査、月検査、重要な部分を解体する検査、全体解体する検査などに分けられる。毎回の検査は数千以上の検査項目に至った。日本鉄道のこのような苛酷な検査と従業員に対して軍人的な管理こそ、日本の新幹線は安全神話を創造した。1964年10月1日の東海道新幹線が開通した以来、新幹線列車の運行事故のために、乗客の死亡事故は一つも起こらないで、たとえ車に衝突して死亡することは起こらない。

 こんなに细かく、精確なヒューマナイズ管理とサービスを通じて、日本鉄道は長い時期の運営中にたくさんの顧客の信頼をかち取って、大量な「鉄道ファン」を引きつける。

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