近世日本におけるキリスト教の創教と発展

 2022-01-19 11:01

目       次

一 はじめに 1

二 キリスト教の渡来 2

三 キリスト教と仏、神、儒との衝突、融和 4

四 キリスト教の土着化 7

五 終わりに 11

致 谢 15

近世日本におけるキリスト教の創教と発展

周圣琰 20121322043

要旨:キリスト教の渡来は伝統的な日本に強い影響をもたらし、東西文化の交流を促進した。中世後期から近世初頭の日本は激動した時代であった。キリスト教の渡来は、こういった状況下の日本国民に新たな精神的支えを与えた。しかし、外来文化としてのキリスト教は、普及していく過程では常に土着文化との衝突を伴っていた。衝突しながら土着文化と融合して日本化していくのであった。本稿はこういった文化の衝突と融和の角度から近世日本におけるキリスト教の展開史を考察するものである。

キーワード:キリスト教;日本文化;衝突;融和

一 はじめに

1549年キリスト教はフランシスコ・ザビエルにより日本に引き入れられた。創教した後、宣教師たちは困難にぶつかりながら、色々な手立てを講じ、異文化としてのキリスト教を日本に根付かせた。キリスト教は日本で開教するのが西洋文明の日本文明への衝撃が始まったころからといえよう。

本稿では日本近世のキリスト教展開史について考察を試みたい。この時期における日本キリスト教の展開史について中国側の代表的な研究成果としては李小白の『信仰・利益・権力:キリスト教の布教と日本の選択』と戚印平の『日本早期イエスズ会史研究』が挙げられよう。李氏の研究では日本近代の政治史と経済史の立場から、キリスト教が日本で禁教される必然性を分析した。戚氏は主にポルトガルの宣教師の角度からキリスト教の発展史を考察した。一方、日本側の研究は史料の収集と整理に重点を置いている傾向がある。また、日本の研究は主に統治者を研究対象として、キリスト教に対する態度や政策を重視している。有名な研究には高瀬弘一郎が書いた『キリシタン時代イエズス会の府内コレジオについて』がある。本稿では以上の諸研究を踏まえながら、文化の衝突と融和の角度から近世日本におけるキリスト教の展開様相及び文化との衝突・調和を考察してみる。

二 キリスト教の渡来

  1. 時代背景

当時、世界は大きな変化が起きていた。コロンブスは航海者として、西洋にアメリカ大陸の存在を発見してから、植民の嵐を起こした。まずはポルトガルとスペインは世界各地に商船を派遣し、そこの金銀を奪っていた。それと同時に、宣教師たちは君主の命令によって、世界にキリスト教の福音を宣伝する使命を背って世界中にキリスト教を信じよう願っていた。一方、中日に関係も変わっていた。勘合貿易の終わりに連れて、ポルトガルがマカオを拠点にして、日本との貿易を始めた。

また、日本国内の状況も変わった。キリスト教が伝来したころの日本は、戦国時代であった。天皇は実際の権力を持ってない、操る人形のような存在であった。1467年の応仁の乱以来、各地で戦乱が起こって、足利幕府は権威を失い、常に幕府将軍その地位が大きく動揺した。大名や国人領主が領土を奪い合った。弱肉強食の時代であった。したがって、各地の領主たちはもっと強い戦闘力を求めていた。庶民たちは戦乱に苦しんでいた。時代の大きな変わり目に、人々は自分を支える新しい宗教が必要になった。

2 キリスタンの広まりと禁制

1549年フランシスコ・ザビエルはポルトガル王国と教会を代表して、日本の鹿児島に上陸した。これはキリスト教が日本での創教歴史の幕があくことを示した。日本の天皇を拝見するために、キリスト教を「上から下へ」広めようと思っているザビエルは京都に行った。しかし、応仁の乱以来、京都には戦禍が絶えなかった。天皇の勢力も衰えた。天皇の力を借りて宣教する計画は失敗した。1551年ザビエルは宣教の戦略を変えって、地方領主の勢力を依頼して宣教しようと思っていた。それに、宣教師の裏がポルトガルの商船の支えがあるため、地方の領主たちも宣教師に好意を示した。1563年領主大村純忠は洗礼を受け、キリスト教徒になった。ザビエルは地方の領主に鉄砲、絹織物、ガラス容器などのプレゼントを捧げることによって、領地で宣教の許可をもらった。この方法で、日本でキリスト教の宣教は一部の成功を得た。大村純忠の後で、豊後の大友宗麟、肥前の有馬義貞、有馬晴信、筑前の黒田孝高もキリスト教の洗礼を受けた。洗礼した大名の権利を利用して領内の庶民が全部教徒になった。「上から下へ」の方針によって、何年をかかって、日本のキリスト教の発展はますます大きくなった。キリスト教は当時、九州から西日本、近畿地方を中心に、多くのキリスト教徒を得た。1569年ポルトガルのイエズス会士フロイスと織田信長との会見はキリスト教の発展を更に進めた。フロイスは織田信長に信用をできたので、二人は仲良くした。織田信長の庇護を受けたので、京都でたくさんのチャーチを建てて、安土城にもチャーチを建てた。1580年京都地方の信徒の人数は九州地方に超えった。1579年バリニャ―ノが日本に派遣された。1581年彼は宣教の制度を確立して、日本は京都、豊後、長崎三つの教区を分け、京都、東山、東海、山陰、山陽、北陸、南海六つの道を含んでいた。そして、日本の宣教師を育成するため、宗教教育機関を設立した。1583年まで、日本各地にチャーチ200所あり、キリスト教の教徒は大名、武士から農民までおよそ15万人ある。キリスト教の発展はピークになった。しかし、1582年本能寺の変を起こして、キリスト教を庇う織田信長がなくなった。豊臣秀吉は信長の家業を相続して、歴史の舞台に登場した。豊臣秀吉はキリスト教の主張を認めないが、西洋人との貿易が必要なので、宣教活動を禁止しなかった。

1587年7月24日、秀吉は突然『伴天追放令』を下達し、20日のうちに宣教師が日本を離れなければならなかった。追放令を発布したが、事実上、その後キリスト教の布教活動は秀吉に黙認されていた。ただ、1597年に、長崎で行われたキリスト教徒に迫害行為があり、26人のキリスト教徒が処刑された。徳川家康は最初もキリスト教に寛容な態度を持ったが、1614年に禁教令を出た。江戸幕府は、布教が西洋人による領土征服の作戦であることを恐れ、宣教師や信徒を迫害した。3代将軍家光は鎖国政策が採られた。その時まで、日本におけるキリスト教の歴史は中断を余儀なくされた。

鎖国期の間、キリスト教徒は血生臭く鎮圧され、人数が激しく下げった。しかし、一部の人はまだこっそりとキリスト教を信じた。幕府の鎮圧を反抗するため、信徒は九州を中心にして、島原の乱を爆発した。

16世紀以来キリスト教の発展過程の中から20年もかかってキリスト教が次第に日本人にうけいれて、ただ、盛んでいる時間は十数年しかないことが見られる。なぜかというと、封建統治者との戦いがかなり精力と時間をかかったからである。当時日本混乱の戦争時代で、外来宗教としてのキリスト教は、日本人にすぐに受け取りにくいである。けれども、いったんキリスト教の思想が人に受け取れば、急速に広く振りまくになって、さらに統治階級の統治を脅かす可能性がある。と同時に、この思想は日本の社会や文化になじめないので、衝突が起こしやすいである。

三 キリスト教と仏、神、儒との衝突、融合

1 仏教からの排斥

仏教は日本で絶対的な地位が占めており、キリスト教が日本に普及する際にぶつかった最大な挑戦と言えよう。6世紀から中国から日本に伝来した仏教は千年もかかって、日本伝統的な主流宗教になった。戦国時代の仏教は権威を失いつつあり、織田信長が仏教の延暦寺を焼いたが、仏教は依然として強く政治の力を持っていた。たくさんの統治者と庶民たちはまだ仏教の信徒である。キリスト教の宣教師らがキリスト教のドグマを日本全国で伝播しようなら、仏教との戦いは避けられない問題であった。従って、キリスト教と仏教の交戦は日本で文化衝突を引き起こした。実は、キリスト教が最初に日本に伝来する時、宣教師らと僧侶たちの関係は悪くないようであった。宣教師の手紙によると、現地の僧侶とお互いに訪れたり、理論問題を討議したり、また、ザビエルは東堂忍室というお坊主と仲が良かったようであった。更に、ヨーロッパからきた宣教師らは日本語が分からないため、キリスト教が信じる唯一のゴッドを「大日」に通訳された。しかし、「大日」は日本仏教真言宗の主神である。このことから、日本の僧侶らはキリスト教の宣教師を敵としなかったことが分かる。しかし、キリスト教と仏教の間に和やかな雰囲気はすぐに破かれた。キリスト教が仏教と全然違う宗教だとわかった僧侶たちは宣教師らに敵意を持つ。キリスト教に入教する信徒がますます多くなって、そのまま自由にさせておいたら、仏教の権威が失われる可能性がある。そのため、僧侶らは宣教師を日本から追い出すようにした。たくさんの地方にキリスト教を冒涜する嵐が巻き起こされていた。宣教師に関する噂も出た。例えば、宣教師は自分の国から追い出され、流刑に処して、日本にきたという噂。宣教師は人肉を食べために、行く先々で頭が良くない人を騙すというなどの噂があった。民衆にそれを信じさせるために、夜になって、宣教師の居場所に血をつけた布をこっそり置いたりすることもあった。更に、民衆が広場で宣教師の宣教を聞くのは許さない。宣教師が広場で宣教しようなら、僧侶らはひっきりなしに罵声や笑い声を出した、小石を投げる。都市の官員は領主の命令によって、宣教師を手伝った。僧侶らは領主を訪ねって、宣教師が自由に宣教することに抗議した。

2 神道との交渉

神道は日本伝統的な宗教的実践と、それを支えている生活態度及び理念である。アニメズムやシャマニズムなどから発し、次第に祖先神、氏神、国祖神の崇拝を中心とするものになり、大和朝廷にとって国家的祭祀として制度化された。歴代の統治者は日本を「神国」と呼び、大和民族を神の民、天皇が「天照大神」子孫と主張した。政権をとる過程で、自分の実力や権威を誇るために、自分を神格化にする統治者もいる。豊臣秀吉は1587年に公布された『伴天連追放令』の中にこう書いていた、日本は神国であるため、キリスト教を信仰する異国人が日本にそのような邪教を宣教することは許されなかった。神道は具体的に造物主と言う概念がなくて、多神論を主張する宗教である。主神は神々と共存し、自然神は社会神とつながるし、神道には、およそ八百万の神がいる。しかし、キリスト教は一神教であり、世界万物は唯一の造物主によって創造される。それはキリスト教と本質的に違うのである。その他、神道教とキリスト教は、神と自然と人間の関係についての考え方もまったく異なる。『日本書紀』によると、最初の神は開け始めた天地から葦の芽のようにうまれてきた神様である。自然は神の母である。こうして、天、地、海、山、木全てのものは自然から神々を生み出して、世間万物が命がある神々である。人間はただの世間の小さいなほこりに過ぎない。人は自然に生まれて、自然に育って、自然の恩に恵まれた。人は自然を敬畏し、自然に生み出した神々もにも祭り、尊敬の心を持つ。一方、キリスト教では、唯一の神は造物主で、人を造った神は「地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはう全ての生き物を支配せよ。」と言った、人間に自然を支配する特権を与えたのである。それゆえ、キリスト教はキリストを絶対な位置において、その教義、思想が揺れない価値観になり、それ以外の思想や宗教は異端として認められない。宣教師は神道の思想を嘲笑する。1605年、日本籍の宣教師不干斎ハビアン書いた『妙貞問答』が出版され、創造論を宣伝し、キリストを信仰する行為の真理性を論証し、仏教、神道と儒教を批判し、他の宗教よりキリスト教の方が優れることを結論とした。不干斎ハビアンは神道への非難が日本の由来に関する神話伝説という面から着手した。その本の中で「天照大神」や「天の岩屋」などの神話伝説を否定することによって、キリストの存在とその合理性を証明した。批判することによって、ハビアンは日本人にとって民族の魂という存在の神国精神を否定しようとしたのでろう。日本神国論の否定を通じて、創造論の正しさを暗示し、キリストが唯一の真理だということを信じさせようしたのであろう。しかし、そのような宣教は神国の子孫だと自慢する統治者の尊厳と日本人の自信を破いた。その結果、頒布された追放令の中にキリスト教が「神の敵」「仏の敵」であって、早く禁止しないと、国に有害するものだと明記されていた。

3 儒教との論争

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