黒澤明のヒュウマニズムを読む―『羅生門』と『乱』を中心に

 2022-01-19 11:01

目         次

一 はじめに 1

二 先行研究 2

三 二つの映画から黒澤のヒューマニズムを読む 3

四 二つの映画への対照分析 5

五 終わりに 8

致谢 11

黒澤明のヒューマニズムを読む

――『羅生門』と『乱』を中心に

蔡志武 20121322025

要旨:黒澤明は日本の有名な監督である。彼の映画で、一貫としてヒューマニズムが溶け込んでいる。『羅生門』は彼の初期の代表作で、『乱』は黒澤明が製作した最後の時代劇である。黒澤明はこの作品を、自分の「ライフワーク」と位置づける。本稿では『羅生門』と『乱』を中心に研究し、黒澤明のヒューマニズムを分析し、解明してみた。二つの映画は人間の愚かさを描いているが、ヒューマニズムに徹した黒澤明はその人間に対して希望を持っている。黒澤明のヒューマニズムは確かに二つの映画の中に表現されている。更に二つの作品を対照分析して、その相違点をまとめ、黒澤氏の映画におけるヒューマニズムの変化を分析する。

キーワード:黒澤明;羅生門;乱;ヒューマニズム

一 はじめに

黒澤明は、世界的によく知られた日本映画の巨匠である。1910年に東京で生まれ、33歳の時に監督になり、そして1950年に『羅生門』がベネチア映画祭で大賞を獲得した。一躍世界中から注目される。そしてその後も、『生きる』『7人の侍』『影武者』などが各国の映画祭で次々に受賞し、ヒューマニズムあふれる作品は世界中の映画関係者に影響を与えた。映画史の中で最も影響力のある映画監督の一人である。

『羅生門』は黒澤氏の初期の代表的作品である。原作は芥川龍之介だが、同名小説よりもむしろ『藪の中』を下敷きにしている。原作「藪の中」で主題になるのは、ひとつの事件に対して関係者の数だけ証言内容が存在するという矛盾と混乱で、人間の愚かさを鋭く描いた。

『乱』は、黒澤明が製作した最後の時代劇である。物語は「三本の矢」の教訓のエピソードが残っている戦国時代の毛利元就の3人の息子たちにヒントを得て、三人の息子の仲が悪かったら、シェイクスピアの悲劇『リア王』と交り合って、出来上がった作品である。1985年に公開された。黒澤明はこの映画を、自分の「ライフワーク」として位置づける。

黒澤映画の魅力はヒューマニズムが描かれ、世界に共通する映画の言葉で語られている。二つの作品は彼の代表的作品だと言える。黒澤明のヒューマニズムを溶け込んでいる。本稿では二つの映画作品を通じて、黒澤明のヒューマニズムを解明し、そして、そのヒューマニズムの変化について論じてみようと考える。

二 先行研究

1 研究状況

多くの研究者は黒澤明についていろいろな検討してきた。主な成果の概要は以下のとおりである。

中国では黒澤明について研究はいっぱいである。例えば、姜明氏の『黒澤明的電影主題思想研究』は、系統的に黒澤明映画を研究して、黒澤明映画のテーマは仁愛を得ると論じている。劉佳氏も『解読黒澤明』という著作で、黒澤明映画は世界と中国の映画に対する影響を紹介した。黒澤明映画のテーマを研究した。

ほかの国では、黒澤氏やその映画を研究対象にする研究者も多くあげられる。日本には黒澤明についていろいろな観点がある。黒澤映画に系統的な研究がある。黒澤明と他の芸術家を比較して研究することもある。そして、『黒澤明の世界』という著作では、アメリカ出身の映画批評家ドナルド・リチーが旅法師は黒澤明の代弁者で、彼は人間のエゴイズムを悲観しているが、しかし、最後人間への信頼を取り戻すという結論を出している。それから、河崎裕介の『黒澤明とドストエフスキー』は黒澤明とドストエフスキーを比べて、黒澤明の映画に秘めた深い慈悲の感情があると指摘した。

2 先行研究の問題点

以上取り上げた先行研究は、さまざまな立場から着手し、研究をしてきた。しかし黒澤明のヒューマニズムを研究するものもあるが、主要な論点として詳しく論述するのがない。本論文の観点から言えば、『羅生門』と『乱』はヒューマニズムに徹した作品である。本稿は二つの映画のストーリーを通して、詳しく黒澤明のヒューマニズムを研究する。

三 二つの映画における黒澤のヒューマニズム

1 『羅生門』におけるヒューマニズム

『羅生門』は芥川龍之介の短編小説『藪の中』と『羅生門』を原作に翻案する映画である。黒澤の『羅生門』は、三人の話が食い違って、すべての容疑者が自分が犯人だと主張している。付け加えられた話は原作の謎が解けるものである。木樵りは小刀を盗んでいた。そのことがばれるのを恐れ、検非違使の庭で自分の見たことを語ることができなかった。芥川氏は「人間は罪を背負った存在である」と信じる。彼の小説は決して客観的な事実など存在しないと言う。しかし黒澤明の意図は芥川のと違う。映画は小説のテーマをそのまま使ったが、人間のエゴイズムを批判するだけではない。映画の最後に木樵りは真相を言い出した。それは黒澤明のヒューマニズムの表れだと考える。

この映画で紹介された登場人物は、一人の旅法師を除けば、全部はエゴイズムの人間である。しかし、木樵りのエゴイズムと他の者たちのエゴイズムとは違う。他の者たちのエゴイズムの本質が、虚栄心を起点とする自己防衛や自己顕示欲、更に、自分を守るためだけの嘘話に流れていったのに対して、木樵りのそれは最低限の一庶民としての生活を守るための、殆ど出来心にエゴイズムの露出であろう。

赤ん坊の一件から、映画は劇的な展開を見せていく。赤ん坊の肌着を盗む下人に激昂した木樵りが、下人の胸倉を掴んで、その拠って立つ「ヒューマニズム」を全面に押し出していくのである。この時点では、ヒューマニズムは二人が共有する気高さを示していて、それが圧力となって下人のエゴイズムを裁こうとしたのである。しかし、下人の鋭い反駁によって、木樵りはヒューマニズムの陣営から弾き出されてしまった。下人に叩かれても文句を返せない男の悲哀は、ここに極まったと言えるだろう。

木樵りはこのとき、下人と同じエゴイズムのラインに立たされてしまったのである。そして木樵りは、追い詰められた果てに自らを責め立てたのである。明らかに、木樵りの人間的苦悩がそこで炙り出されてしまったということ、それが切実なのである。木樵りは愁嘆場にあって、「恥ずかしいのはわしだ。わしには、わしの心が分らねぇ」と自分を責め立てた。また彼は、その思いを行動に表したのである。男は紛う方なく、自らの恥ずべき行為を乗り越えようとしたのである。生きるためには何をしても許されるという下人のエゴイズムである。木樵りそのエゴイズムを許されないで、行動に表して、ヒューマニズムにシフトする。ラストシーンに於ける木樵りの晴れ晴れとした表情は、人間を信じることである。

2 『乱』におけるヒューマニズム

黒澤明の『乱』は、『リア王』を日本の戦国時代に置き換えた物語で、黒澤のメッセージや深い想いが感じられる作品である。『乱』の舞台は16世紀日本の戦国時期である。広大な領地を数々の戦で勝利し、得ていた一文字秀虎は、自分に老いを感じ、三人の息子に領地を譲ろうとする。

一文字家当主の秀虎は長男一郎に家督を譲る。その時諫言した三郎を追放した。余生をを安楽に過ごす思料だったが、二人の息子の裏切りであった。仕方なく三城に入る。しかし一郎、次郎軍に攻められ部下が全滅した。秀虎は狂気に陥って荒野に消える。一郎は二郎側近の計略により討ち死にする。次郎が一郎の一城にいる。映画の最後、三郎は一城を撃破し、次郎は討ち死にする。三郎も漸く秀虎と和解できた暁に敵の狙撃で死ぬ。それを見て秀虎はショックで息絶えた。救いようのない一文字家滅亡の物語である。

黒澤明監督は自伝『蝦蟇の油』で、『乱』を"神の視点で描きたい"と言った。『乱』に大勢の人間が殺しあう合戦シーン、燃える城、絶望に駆られて自決する女達、傍で見れば目も当てられぬほどに残酷なはずの首無し少女の死体が見える。黒澤が「神様は人間のことを善か悪かで判断してるんじゃないの」というメッセージを込めた。黒澤が言いたかったのは、人間社会の愚かさ、因果応報、憎しみの連鎖は人間自分の過ちだということである。

しかし、映画『乱』は悲劇であるが、希望が映画にあると思う。『乱』の原作である『リア王』はシェイクスピアの悲劇で、登場人物の死によって終わる。そして何事もなかったかのように世界は営みを続ける。善玉も悪玉も最後は全て死に見舞われる。それに対し、『乱』の場合、ラストで、末の方の弟鶴丸が崖上から転落しそうになったが、仏の絵姿が現れ危機一髪のところで鶴丸を救う。このシェイクスピアにはない最後のわずかな救いは、やはり黒澤のヒューマニスト的一面がのぞいている。生き残った鶴丸の目はつぶされて世界を見ることはできない。人間の業が深いことを考えさせられる。

『乱』は人生の黄昏を感じ始めた黒澤明監督自身でもあるのであろう。仏の絵が地面に置き去りにされて、悲しげにこちらを見つめており、盲目の青年が崖の上に取り残されているというラストのシーンは秀逸である。「この“乱”れた世で生きるということは、盲目状態で崖の上を歩くようなものなのではないか」と黒澤は言いたかったのかもしれない。『乱』が醜い現実で人々の反省を引き起こす。ただ人類に自分の愚かさを認識させ、人間の愚かさを変えることができる。これも黒澤明のヒューマニズムの体現である。

四 二つの映画への対照分析

『羅生門』と『乱』は黒澤明黒澤氏が監督として生涯初期と末期の作品、黒澤明の最も代表的な作品である。二つの映画への対照分析を通して、黒澤映画のテーマ、そしてそのテーマの変化を理解することができる。この二つの映画には多くの共通点と相違点がある。ここで映画におけるヒューマニズムについて対照分析を行う。

1 共通点

まず、黒澤明の映画で、一貫としてヒューマニズムを溶け込んでいる。彼の作品に共通するキーワードとしては「ヒューマニズム」が上げられる。彼の映画の特徴は、そういったテーマを巧みなストーリーに変える。黒澤明監督はすべての作品でにおいて『なぜ人間が不幸か』というヒューマニズム問題を取り上げた。『羅生門』は黒澤明初期創作する映画である。映画は人間の醜さを描きている。鬼も逃げ出すという『羅生門』で“人間の愚かさ”を描いたように、『乱』もシェイクスピアの悲劇『リア王』をベースに“人間の愚かさ”を描き切っている。しかし、二つの映画を通じて黒澤のヒューマニズムを見える。二つの映画のラストは、人間に希望を持っている。

次に、黒澤明の思想は仏教の影響を深く受けられた。二つの映画にも仏教の臭いを嗅いだ。『羅生門』に旅法師は黒澤明の代弁者だと言うことができる。最初に旅法師は人間のエゴイズムを悲観する。彼は「人の心が信じられなくなりそうだ。これは盗賊よりも、疫病みよりも、飢饉や火事や戦よりも恐ろしい。」と言う。赤ん坊の一件から、彼は人間に信任を回復する。彼は人間のエゴイズムに対してひどく残念に思っているが、しかし同時にまた人類に対して自信を持っている。『黒澤は「リア王」の中の仏教的思想に注目し、それを「乱」に取り入れて発展させているといえる。』『乱』のラストで仏の絵が地面に置き去りにされて、悲しげにこちらを見つめており、盲目の鶴丸が崖の上に取り残されている。仏の絵姿が現れ危機一髪のところで鶴丸を救う。映画には仏教の慈悲は黒澤明のヒューマニズムである。

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