武家家訓から見る武士の論理

 2022-01-19 11:01

目         次

一 はじめに 1

二 武家家訓について 2

三 武家家訓と武士の論理 4

四 終わりに 6

致 谢 10

武家家訓から見る武士の論理

苏美盆 20121322013

要旨:武家家訓は武士の価値観を表した。本稿は、武家家訓について考察を行い、武家家訓の流れ、特徴などを展開しながら、武家家訓の中の武家論理を論述するつもりである。武家家訓は家業を受け継ぐ“本”として武士の生活を導き、武士の生活において重大な役割をしている。同時に、武家家訓における武士の論理もほかの社会階層に染み込んでいる。実際には、武士が勇敢に現実に向き合って臨機応変な精神こそ武士が十九世紀の内憂外患に自己調整、自己更新の態度を持って近代国家に転換することが完成できる原動力である。一方、武士の論理は一連の対外的な侵略と略奪の行為に理論根拠を提供して、ものはの剣といえよう。ということで、どうやって論理を善用するか、あるいは、どうやって伝統的な論理の中の特性を良性の働きに発揮するかを本稿の目的として論じていきたい。

キーワード:武家家訓;武士の論理;近代国家;もの派の剣;武士の精神

一 はじめに

日本は中国と深遠な文化源流を有し、家訓を通じて家を切り盛りする伝統はかなてから日本に伝えられてきた。日本の武士、商人、農民などの各階層は家訓を持って後世にまで伝わって、そして女性を向ける女訓もある。数量であれ、影響力であれ、武家家訓は日本家訓にとって重要な構成要素である。武家家訓は武家社会の発展過程を貫いている。武家家訓には世を治める道を除いて武士に対して備えすべきの教養もたくさん書いてある。そういうことで、「武家家訓における武士倫理は一体どういうことなのか?」という疑問を持っている。

日本の武家家訓と武士倫理についての先行研究は少ない。李卓は『日本家訓研究』(天津人民出版社、2006年)において「武家社会からみた武士倫理」という論述には、「尚武、尽忠、待下、重名、務実」というの五つの方面から武士倫理を論じる。そして、許訳兮の「日本武家家訓所見之倫理」(『日本研究論集』、2007年)という文章は「以武为本、对上效忠、对下施恩、珍惜名誉、注重実際」を論じ、論点はほぼ李卓と同じである。実は、武家家訓における武士倫理は単なる以上の五つの方面ではない。

本稿は、武家家訓における武士倫理を中心に、先輩の研究結果に基づいて、武家家訓における武士倫理の「武術を尊ぶ、忠誠を尽くす、勉強に励む」という視角からまとめていきたいのである。

二 武家家訓について

(一)武家家訓の発展

武家とは日本における軍事を主務とする官職を持った家系である。江戸時代には武家官位を持つ家計を言う。広義的に現代では武士を指すこともある。家訓は、公家や武家、さらには時代が下がって江戸時代になってからは商家でもその家を守り立て存続させていくために、子孫の戒めとして、その家の当主が書き残して与えたものである。簡単に説明すれば、誰しも幼い時を思い出してみれば両親からとりわけ厳しくしつけられてきた徳目や心得があるであろうし、また、言葉として言われてはいないが、祖父母や両親の日ごろの言動を通じて、知らず知らずのうちに身についてきた人生観なり処世術と言ったものがあるはずである。これらもすべて広い意味での家訓といってよいであろう。武家家訓は武士の当主が家族メンバー及び家臣への訓戒であり、製作する目的は家業の永久を維持するにある。

初期の武家家訓は宗教の色合いが強くて道徳教育と訓戒を重視する。例えば、最初の武家家訓は十三世紀の『北条重時家訓』であり、その内容が抽象的で、仏教の色合いが強い。「仏神を朝夕あがめ申し、心にかけ奉るべし。神は人の敬うによりて威をまし、人は神の目ぐるみによりて運命を保つ。しかれば仏神の御前にまいりては、今生の能には正直の心をたまはらんと申べし。そのゆへは、今生にては人々にもちゐられ、後世にては必西方極楽へ参り給ふべきなり。かたぐもってめでたくよき事也。此旨を能々あきらめ給ふべく候なり。」という徳目はまさに『北条重時家訓』における武士への訓戒である。鎌倉幕府末期から室町幕府に至るまでの間に、社会情勢が不安定で、武士集団内部の紛争が途切れないがゆえに、こんな厳しい現実を向かって、武家家訓はプラグマティズムに転じ始めて、家訓の内容も具体化に傾けて、現実に近づきつつある。『竹馬抄』、『今川了俊制詞』、『伊勢貞親教訓』などもそうである。戦国時代に入って、家訓の訓戒する対象が広くなって、人倫を強調するが、もっと戦闘を重視するのはその特徴である。例えば、『武田信玄家法』の中には軍事内容が少なくない。その後、江戸時代に天下統一となって、社会安定、家訓のスタイルの変化も大きくなる。朱子学が日本で官学となったので、家訓における人柄の教養及び身分階層に対する論述が多くなって、同時に家訓には普通の武士の基本的な教訓が依然として残っている。

(二)武家家訓の特徴

歴史上、武士階層は約7百年の日本を支配する。彼らは権力をコントロールするにとどまらず、教育をも支配する。武家家訓の編纂レベルは日本家訓の全体レベルを反映することができる。武家家訓は形式に拘らず、丁寧な文書もあれば、遺言或いは談話記録もあれば、扁額までに書いてもある。武家家訓の編纂様式から見れば、ある家訓はごくわずかであって、例えば、戦国武将加藤清正が作った『加藤清正掟書』にはただ七つだけである。こういう内容は筋道がはっきりしていなくて自由性が強い。そして、紙幅が長い家訓もある。例えば武田信繁の『古典厩より子息長老』には九十九条もあって、重要事故も些細なことも区別しない。当主に奉り、弓馬の道を練習するから武術の道具を装備し、馬を飼育するまで、全部は関連する。筋道がはっきりしている。修辞から見れば、ほとんどは簡潔でさっぱりしている。例えば、『今川了俊制詞』にはほとんどは作者の体験話で、各条に間に内在のつながりがなくて、またある内容は重複している。

三 武家家訓と武士の論理

武士倫理即ち武士道は日本の近世以降の封建社会における武士階級の倫理・道徳規範及び価値基準の根本をなす、体系化された思想を指し、広義には日本独自の常識的な考え方を指す2。

第一、武芸を尊ぶことである。武士即ち武力を特色とする。武士が弓馬という武芸によって平安時代の貴族社会から奮い立たれてから、武力は武力階層が乱世に立ち、政権を支配する頼りとなった。武芸を尊ぶ精神は一貫して武士階層の発展をやり遂げる。初期の武士は武力で宮廷の侍をし、強盗を鎮圧し、治安を維持するという職責を全うしていた。戦国時代いわゆる「下剋上」の時代であり、戦国大名は自分が集結させてきた兵力を利用して領国を立てて、戦国名将の話を記録する『朝倉宗滴話記』には、「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝事が本にて候事」3という徳目が書いてあり、武士の本質を言い出した。戦国時代は戦争が頻繁であって、武芸は武士の命にかかわったが、家訓にはかえって少ないようである。なぜなら、それはその時において武術を重視するのは無論のことであり、くどくど言うまでもないからである。江戸時代に入って、武士団のアダの戦闘はなかったにもかかわらず、国家の基本構成は依然として軍事に基づいて築かれた。武家家訓における武士道を尊ぶ精神は一度も中断したことがない。治世としては、「治に居て乱を忘れず」をどうすればいいかは問題になって、そのために、家訓における武芸を練習する徳目が多くなってきた。「奉公之道油断すべからず。朝寅之刻におき候て、兵法をつかひ、飯をくひ、弓を射、鉄砲をうち、馬を乗る可く候。武士之嗜よきものは、別して加増を遣わす可く候事」4のである。とにかく、戦国時代であれ、平和時代であれ、武芸を尊ぶ精神はずっと維持されている。

一方、武士が武力で天下を統治するという方法も暴力が武士倫理における位置が決定される。こういう暴力は社会風習に受けられただけでなく、法律までに許された。武士倫理は暴力に対して相当な認めがあって、外部の圧力において暴力傾向の転換と飛び散りに可能性を提供する。

第二、忠誠を尽くすことである。主従関係に始まる忠誠は武家家訓における重要な倫理である。忠誠もともとは儒家の理念で、中世の武家家訓にはあまりない。ほとんど主君の恩恵に奉公を行うという表現に見える。「君につかへ奉る事、必ずまづ恩を蒙て、それにしたがひて、わが身の忠をも奉公をも、はげまさんと思ふ人のみ侍なり。」5という徳目も書いてある。近世初期になって、鳥居元忠、黒田長政などの家訓には「忠勤」、「忠節」、「忠志」、「忠義」が現し、以後、「忠孝を尽くす」、「一心忠勤」という説が家訓に広く活用されている。「君父の重恩を忘却して忠孝猥の事。」ともある。藩主が将軍と主従関係を結び、藩主と藩士と主従関係を結ぶ。藩主は将軍の家臣として、将軍の命令に従って将軍に忠誠を尽くすこそ藩が取り除かないことができる。したがって、家名の継続ができる。藩士は藩主の家臣として今の藩主に忠誠を尽くすこそ自分の家名と家禄が持て、ほかの主君を選ぶチャンスはない。君臣の主従関係が強固になってくるにつれて、忠誠を尽くすという意識が武家社会の認める道徳になった。もちろん、時代が変わって、忠誠を尽くす内容も変わった。中世において家臣は主君に対する忠義はまず戦争で家臣を率いて戦いを参加することから現してくる。『今川了俊制詞』における「第一武士の家に生まれ、合戦を嫌ひて心に懸けざる侍、寄人に数えざる由、名将の多く誡め置かる也。」というという徳目がある。その意味は、「まず、武士の家に生まれながら合戦を嫌い、武勇を心がけぬような侍は、部下の数にも入らない。これは多くの名将たちが教えられるところである。」である。ということで、合戦を参加することは武士にとってどんなに重要なのかは分かる。

割拠混戦の局面が終わって、近世時代の忠誠が「畳上の奉公」となって、 軍事力を利用する場合が少ない。大名領主が幕府への忠義は主に自分の領地を治めて奉公の義務を実行するに表している。一般の武士にとって領地で真面目に自分の職務を実行することが忠誠である。「まず、日常の行動を慎み、礼儀を正しくし、主従が相和して下々を哀れみ、賞罰の軽重を誤ることなく、親疎の差によってえこひいきの沙汰をせぬことである。」というのも書いてある。

第三、勉強に励むことである。初期武士の全体の文化水準があまり高くなかった。武士は政権を支配した後に、武芸だけでなく、施政者のキャラも演じなければならない。したがって、学問は武士にとってますます重要になった。政権を守るために、武士は常に自分の文化教養を強めるという意識を注意して、それに武家家訓には勉学についての徳目がたくさんある。

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