志賀直哉の文学に現れた東方思想について

 2022-01-19 11:01

目         次

一 はじめに 1

二 志賀直哉とその文学 2

三 志賀直哉の文学に現れた東方思想について 3

四 終わりに 8

致谢 11

志賀直哉の文学に現れた東方思想について

王利星  20121322004

要旨:志賀直哉は日本近代文学史で有名な作家の一人であり、日本で「小説の神様」と呼ばれている。吉田精一は『現代日本文学史』において、「志賀直哉は大正時代最も純粋な文学家の代表」と述べている。志賀直哉作品の閲読を通して、志賀直哉作品に含められた東方思想の多種な要素が発見された。その東方思想をシステムにまとめるため、本論文は2部に分けられ、1部は志賀直哉及び彼の文学を論じ、2部は『和解』『城の崎にて』『暗夜行路』などの志賀直哉作品に見られる禅学の無常生死観や荘子哲学の「天人合一」の自然観、儒教思想の仁愛、正義、寛容、同情及び墨家の兼愛非攻戦争観などについて研究する。

キーワード:志賀直哉;東方思想;禅学;荘子;儒教思想;墨家戦争観

一 はじめに

20世紀30年代頃から、志賀直哉の作品は魯迅、周作人などの学者及び翻訳家により、中国へ紹介された。中で、中国有名な学者郁達夫は志賀直哉の文学を高く賞賛し、「完全なる人格を持つ大物の芸術家」1と彼の人格を高く評価した。劉立善は作品を通して、巨視的な角度から郁達夫と志賀直哉について比較を行い、調和意識や文学観、懺悔意識を分析した。陳秀敏は志賀直哉の名作『暗夜行路』を研究し、中に含められた禅宗意識、無常観、母に対するオイディプス式感情、正義などの方面について深く掘り込んだ。胡琴の研究ポイントは「正義」である。生死観について、劉吟舟は志賀直哉の文学観、言語、神韻感情の三つの方面から『城の崎にて』について分析し、死に向ける志賀直哉の心の平静は日本民族内部の感情を表したと指摘した。肖書文は『城の崎にて』に志賀直哉が生死に対する理解はすでに哲学の面に上がったと論述した。李芸徳は『暗夜行路』を通して、主人公時任謙作の心の変化を分析し、そこで志賀直哉の自然観が「対立」から「調和」への変化過程を見られる。志賀直哉の自己意識の方で、王姝因は『范の犯罪』に妻を殺すのと『暗夜行路』に妻を許すのと比較から彼の思想の変化を比較した。赤羽学は『邦子』で志賀直哉の「自己理念」についての真剣な思考を分析した。秦丹は重点的に志賀直哉の家族意志を分析した。李洪学は志賀直哉の創作理念と荘子の人生哲学を分析した。藍泰恺は志賀直哉が完全なる人格を持つ大の芸術家を重点的に述べた。

日本国内で、最初はただ作品から表現されている思想について評価と分析し、後期に志賀直哉についての研究も多様化になり、志賀直哉文学の創作方法や、創作思想の変化などの問題についていろいろ議論された。以下は日本国内に志賀直哉の文学についての主な評価である。吉田精一は志賀直哉を日本の心境小説の開拓者と評価し、彼の芸術加工により輝く心境、大正時代最も純粋な文学家の代表とも言われる。作品は簡潔活発で、自然趣味を如実に描いた。平野謙は志賀直哉文学が「救い」文学の一種と言い、混沌な危機を逃れ、「調和感に向く」文学体である。伊藤整は志賀直哉が思想を貫き、身をもって実践する人であり、『城の崎にて』の中の蜂、ネズミ、イモリと志賀直哉本人の怪我の間に直接の繋がりがあると高くこの作品を評価した。

二 志賀直哉とその文学

自然主義文学の流れの中、作家は文学小説で自己を告白し、大胆的に裏世界を暴露した。後期に、作家個人の痛み、抑えられた人性、家庭の重み、内心の醜さの暴露などが小説創作のメインの内容となった。志賀直哉をはじめ、一部の若い人たちはその硬い、醜い文学に強い不満を表した。彼らは貴族の出身で、思想が伝統的な道徳に束縛されず、人道主義精神を主張し、個性の開放と発展に強く追及した。その結果、1910に志賀直哉は有島武郎、武者小路実篤と一緒に、雑誌『野望』、『麦』、『桃園』と整合し、新刊『白樺』を立ち上げた。

志賀直哉の作品の大数は心境小説である。作品は大体家庭生活や些細なことから展開した。取材の見た目は平板で簡単だが、中に独特な審美意識が含められた。父が彼の文学創作と恋に反対した、初期の文学は主に親子の矛盾と葛藤に巡った。作品から彼の強い自己意識を反映された。『網走まで』、『大津順吉』は志賀直哉初期の一番の代表作である。1913年の山手線の電車事故で傷を受けてから、3年の休筆期に入った。この時期、志賀直哉は山と水に囲まれた休養中にだんだん調和、中庸な人生観を形成した。1917年に、再び筆を持ち、『和解』、『城の崎にて』、『赤西蠣太』、『好人物の夫婦』などを発表した。この一連の作品から志賀直哉の平和、協調を追求する心境が表した。16年に渡った『暗夜行路』は志賀直哉唯一の長編小説である。父との不和を解消あと、志賀直哉は矛盾から解放し、自分の長い心の道を振り返り、極端な自己思想を克服する軌跡を考え、そこで『暗夜行路』が生み出した。『暗夜行路』は自伝と虚構を合わせた小説でも言われる。なぜなら中の一部は志賀直哉本人の生活経験が入っている。

志賀直哉の作品は大体自分の実際生活を真実に描いた文学であり、しかも「私小説」の手法で書いた。自然主義小説の苦悶と消極的な感情と違い、作品の主人公はそういう消極苦悶や彷徨う気持ちもあるが、最終的に明るい未来に向ける結果となる。小説を通して、自己を表し、生活と人生に対する積極的な態度を表現した。最初から最後まで、志賀直哉の作品は現実を重視し、でも現実と理想が噛み合わないため、彼が書いた人物はなかなか現実に溶け込まない。そこで、東方禅学は主人後の思想調和に解決案を提供した。要するに、彼の作品は自己を表現し、自然に親しみ、人道主義精神と個性関心を重視し、底辺の民衆に深く同情と持ち、世の苦しみが理解できで、戦争に反対する。

三 志賀直哉の文学に現れた東方思想について

1 東方禅学

『暗夜行路』は志賀直哉唯一の長編小説であり、「近代日本の最高峰」とも褒められる。半自伝体小説として、『暗夜行路』は志賀直哉の精神生活の発展歴史である。小説の前部に謙作は若き母を亡くし、祖父に育てられた。謙作の誕生は彼の無常の運命の始まりであり、父の無様な存在でもある。「罪の子」の身分に求婚失敗、謙作は失恋の危機に廣島にある瀬戸内海と四国島に旅行創作で行った。自分の身の上を知ったうえ、父が下女との結婚への反対も知り、その両方のショックで、謙作は他所に引っ越し、精神的に苦しんで、落ち着かない状態で気ままにふるまうような生活を送った。後部に謙作は美しい直子に出会い、結婚し穏やかな生活になったが、長男の若死、栄さんの商売失敗と他所にの放浪、まだ直子の失貞などの苦痛は再び謙作を苦しめた。そして、謙作は再び旅に出た。自然の中に心の安泰を求めた。ショ—ペンハウエルはこう言った「意志があり、そこで追求ともがきがあり、そこで悲しさと煩悩があり。文芸を賞味するとき、一時的に我を忘れ、意志の束縛から解放され、意志の世界から意象の正解に入りこむことができる。だから、文芸は人生の開放の一種である。」しかし、文学創作は謙作に運命の「暗夜」から抜けず、運命に惑わされた謙作は平穏な精神と求めるため、京都に行った。愉快、安静、謙虚な気持ちを抱いて、寺を巡った。

「謙作はよく阿阿彌堂といふ三四町登った森の中にある堂へ行った。特別保護建造物たが、縁など朽ち腐れ、甚だしい荒れたてていた。しかし、それが却って彼には親しい感じをされた。」2

自己浄化の過程に、謙作は平静な心を生じた。その安静は禅学の「平常心」である。時任謙作の旅は急性胃腸炎で強制的の止められ、そこで謙作が深く死の接近を感じた。しかし、謙作にとって、死は恐ろしいことではない。確かに、死に対する恐怖は人類の本能の一つであるが、謙作にとって、世の精神的な紛れを経験し、人生を悟り、人生と自分を肯定した後に、その心境により、彼はすでに死の恐怖を超えて、最終的に安定な心境に辿り着いた。

志賀直哉が生活した時代に、仏教は日本に更なる普及をしていた。しかも日本の経済、文化、芸術、文学などいろいろな方面に染み込んだ。この流れで、志賀直哉も当然仏教に影響された。1915年、志賀直哉は京都の南禅寺に行った。3ヶ月の寺生活に志賀直哉は自己を調整し、心を緩めて、人生について更なる深い認識ができた。彼は仏教禅学の思想を受け、仏教の「悟り」は志賀直哉の心をますます平穏になり、生死の無常を認識し、生死に対する認識も深くなった。人は自然の一部として、いかに小さい存在である。その故、彼は天理教雑誌への返事でこう書いた「宗教の最も幸いなことはどんな不幸にあっても、その故死に至っても、心の平和と快適を失わずに安泰にいられることである。」

2 荘子哲学

志賀直哉は「心境小説」の開拓者と言われる。作品から生活の悟りを心境の描きを表現した。志賀直哉は個人経験から取材する最も多いの作家の一人である。志賀直哉の作品を読むのは志賀直哉を読むようなことである。志賀直哉の人生は自己堅持、矛盾苦痛、調和順化期の3つの時期に分けられる。その時期も彼の作品で現れる。志賀直哉の作品の中に深い自然感情が籠っている。それも彼と他の白樺派作家の違いである。

志賀直哉の作品を研究する学者がたくさんいるが、大体の学者は志賀直哉の成長環境、家庭背景、西方文化の影響などから議論する、古い東方の文化と関わる人が少ない。実は、志賀直哉の論点の数多くは荘子と似ている。荘子は人生哲学に「天人合一」を尊び、人は自然規則を従って変化し、頑固に我を保つべきではないと主張する。

初期の志賀直哉は自己主義者、外の一切に抗争する態度で接して、些細な事や自然風景に向く時間がなっかた。事故の後、志賀直哉の物事を見る角度が変わってきて、家庭の些細な事は単一な創作材料ではなくなった。この時期、彼の作品に自然風景のことが多かった。例えば、『城の崎にで』に、電車事故の後、志賀直哉は生命に対する認識が高まった。休養期間中に自然に触れ合う機会があって、自然を感じで、それに自然からの力を感じで、その後に命は自然に依存していると認識した。自然の力は強い、自然の前で、脆い命は弱い、強い自然の前で、動物の死に向けて、志賀直哉は平静である。

「外界にそれを動かす次の変化が起るまでは死骸は凝然と其処にしているだろう。それとも蟻に曳かれて行くか。それにしろ、それは如何にも静かであった。忙しく忙しく働いてばかりいた蜂が全く動く事がなくなったのだから静かである。自分はその静かさに親しみを感じた」3

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