『山月記』の李徴からみる中島敦の人生観

 2021-11-30 09:11

论文总字数:10331字

摘 要

 日本作家中岛敦撰写的《山月记》讲述主人公李徵变虎的故事,取材于中国古典小说《人虎传》。本文试分析小说人物李徵变虎的原因,并从变虎的原因看作家中岛敦的价值观。

关键词:中岛敦 《山月记》 变虎 矛盾 价值观

要 旨

中島敦は作品の多い作家でもなく、生前高い評価を受けた作家でもなかった。しかし、そのユニークな短編小説「山月記」が長年教科書に採用され続けていることで、中島敦は「国民的作家」と評価されるようになった。

小論では、「山月記」の主人公李徴はなぜ虎になったのか。また、李徴の人物造形に、中島敦のどのような価値観が投影されているのか、以上の二つの問題点を中心にその作品を分析してみたい。

キーワード:中島敦 「山月記」 変身 矛盾 価値観

目  次

 

1. はじめに 1

1.1. 問題提起 1

1.2. 先行研究 1

2. 中島敦と「山月記」 2

2.1. 中島敦の生涯 2

2.2. 「山月記」のあらすじ 3

3. 虎になる理由を巡って 3

3.1. 李徴の望み 3

3.2. 不遇者の逃げ道 3

3.3. 李徴の告白と頼み 4

3.4. 虎になる 5

4. 虎になる理由からみる中島敦の価値観 5

4.1. 政治における追求 6

4.2. 詩に対する執念 7

5. 終わりに 7

6. 参考文献 7

はじめに

問題提起

昭和17年2月、中島敦の名作「山月記」は他の一篇「文字禍」とともに「古譚」と題して、雑誌『文学界』に発表された。深田久弥によって、当時『文学界』編集に携わっていた河上徹太郎氏のもとに推薦されたのである。これは中島敦の作家としてのデビューであった。

「山月記」の同時代における評論は三つの段階に分けられる。

まずは発表された直後の時期である。発表の翌月、『三田文学』の雑誌評論欄に次のような批評があげられる。「中島敦の「古譚」は、近頃のがさつな文壇には珍しい理智的な作品であって、それだけ目だって見える。しっかりした、練れた筆致で気品があり、悪ふざけでないおもしろさをもっていた」[1]。これは短評ながらも最も早い「古譚」評であり、その価値を正しく認めていると言えよう。

ついでには「光と風と夢」が芥川賞の候補作となった時期である。「古譚」について次のように述べられていた。「これは衒学的な臭味があってどうも好きにはなれなかった。」(滝井孝作)、「同じ作者の「古譚」も読んだ。これはなかなかおもしろい。しかし、芥川賞に推薦するほどの『小説』ではない。」(小島政二郎)。いずれも酷評で、「古譚」の価値をあまり高く認めていなかった。

今日では、「山月記」は芥川賞選考委員の評言をはるかに越え、「近代小説の正道」[2]の作品、「日本の近代小説として第一流の小説」[3]として定着した。

「山月記」は李徴という主人公が家庭や友など何もかも捨て、藪の中の虎になったという奇妙な話である。李徴はなぜ人間から虎になったのか。また、中島敦はどうしてこのような怪異な物語を書き上げたのか。小論では、李徴が虎に変身する理由を巡って、中島敦の価値観を探ってみたい。

先行研究

李徴はなぜ虎になったのか。以下の先行研究がある。

李徴が公用で「汝水」のほとりに宿った時、戸外で自分を呼ぶ声を聞き、それを追って闇の中へと駆け出す。そして気がつくと、李徴の外形は虎になっていた。李徴にこの大きな転機をもたらしたのは不可思議な声であった。

この声に関しては、小澤保博は「李徴は、自分自身の精神の内部の声によって導かれ異類に変身する」[4]としている。また、奴田原諭は声を「自己の内なる呼び声」とした上で、「現実の生活に忠実であろうとし、自己の目指していたものを忘れて生きようとする李徴を、もう一人の彼は闇の中へと導き出した」としている。そしてそれは「詩作への渇望と同時に、引き裂かれた精神の統合を欲する無意識の行動であったかもしれない」とし、さらに李徴が虎になった理由を「芸術家として生きんとしながらも生き得なかった男の狂気」[5]であるとしている。

以上のように、李徴を呼んだ声を李徴自身の内面の声とする見解は近年の「山月記」研究において比較的に新しいものである。しかし筆者はさらにもう一歩、その内面の声の本質に踏み込んで考えることにする。

また、李徴と李徴を書き上げた中島敦とはどのようなかかわりがあるのか。非常に微妙なところに何か欠けている詩作に執着しつつも、人間社会から脱出しようとしている李徴、「虎狩」をもって文壇デビューをした中島敦は文明の発展していないパラオ島へ療養に行く。そのような矛盾を李徴と中島敦の類似した経歴から見て取れるのは偶然ではない。

小論では、李徴が虎になる理由をめぐって、李徴の矛盾及び李徴という主人公を描いた作家中島敦とのかかわりを探ってみたい。

中島敦と「山月記」

中島敦の生涯

中島敦は明治42年(1909)5月5日に東京市四谷笥町五十九番地の岡崎太方で出生した。祖父は亀田鵬斎流の書を伝える漢学者の中島慶太郎。父は漢学教育者の中島田人。母は千代子。しかし、中島敦は生まれてわずか二年後に両親が離婚することになり、明治44年(1911)、埼玉県久喜町の中島家に引き取られ、祖母らによって育てられたが、祖父がこの年の6月に83歳で他界していた。そして、6年後には奈良に赴任していた父に引き取られ、前年に父が娶った第二の母カツと会う。氣性の激しいカツに折檻されることもあったらしい。このカツも中島敦が十五の時に妹(澄子)を生んでなくなり、その一年後には中島家に第三の母が迎えられた。こうした複雑な家庭環境の中にあっても、中島の学業はトップクラスにあったというが、それは中島敦はもとより多士済々の伯父や叔父から陰に陽に少なからざる学問の影響を蒙ったことによると思われる。

父の朝鮮赴任で朝鮮の学校に転学し、京城中学校を卒業後東京第一高等学校に入学。在学中の昭和2年11月(1927)、第一高等学校校友会雑誌『校友会雑誌』第313号『下田の女』を発表、以後、高等学校を卒業する昭和5年3月までに同誌にあわせて6篇の作品を掲載している。東京帝国大学国文学科を卒業したあと、森鴎外の研究のために同大学の大学院に進む。卒業後、私立横浜高等女学校の国語と英語の教師として赴任した。数年間の教師生活をした後、教職を辞し、文部省に勤めていた親友釘本久春の斡旋で日本の委任統治下にあった南洋諸島に赴き、南洋庁の国語編集書記としてパラオへ赴任する。 この間の経験を「南島譚」、「環礁―ミクロネシヤ巡島記抄― 」などの作品に生かしている。1942年3月に戦争激化により帰国。同年7月辞職。

帰国後は、喘息と闘いながら、深田久弥の推薦のもと、1942年に多くの作品、「古譚」、「光と風と夢」などを『文學界』に発表し、後者は芥川賞候補となる。その年の年末に気管支喘息悪化でなくなった。享年33歳。完成された作品の数もさほど多くなく、字義どおりの作家生活もわずか死の直前、半年あまりしか持ちえなかった一人の夭逝作家である。

「山月記」のあらすじ

唐の時代、隴西の李徴はかつて名を虎榜に連ね、江南尉に補った。しかし、片意地で自負心が強く、役人の身分に満足できなかった。彼は官職を辞し詩人として名を成そうとするも、うまく行かず、ついに挫折にあった。小役人となって屈辱的な生活を強いられたが、その後、地方へ出張した際に発狂し、行方知れずとなった。

翌年、彼の数少ない旧友であった袁傪は、公務に赴く途中で虎に襲われる。しかし、その虎の正体は李徴であった。虎となった李徴は姿を隠したままいきさつを語る。まだ自分が記憶している数十の詩編を書き記して残してくれないかと頼んだ。

それらの詩は見事な出来ばえであったが、非常に微妙な点において劣る所があるのではないかと袁傪は思う。李徴は更に語る。なぜ虎になったのか。自分は他人との交流を避け、皆はそれを傲慢だと言ったが、実は臆病な自尊心と、尊大な羞恥心のためだったのだ。

別れを惜しむ李徴は、残された自分の妻子の援助を袁傪に依頼した。月の下に猛虎が姿を現わし、咆哮すると共に姿を消し、再びその姿を見せることはなかった。

虎になる理由を巡って

李徴の望み

「山月記」の冒頭には「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね」[6]とある。「名を虎榜に連ね」るということは、名を成すこと、すなわち出世ということである。虎榜に一度虎となった李徴の願望は、社会の中枢である長安で成功することであった。しかしながら李徴は「江南尉」としての地方勤務を余儀なくされ、官途において失意に陥る。そして李徴は「己の詩集が長安風流人士の机の上に置かれてゐる様」を夢見、「下吏となつて長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺さうとした」[7]のである。李徴は詩家として詩文に生きる途を選ぶ。

しかし、ここでもやはり李徴の文名は容易に揚らなかった。さらに数年後、李徴が「己の詩業に半ば絶望し」「妻子の衣食のため」[8]に再び就いたのは、やはり俗悪な地方官吏であった。しかしその地位もかつての同輩よりはるかに低く、李徴はここでさらに自尊心を傷つけられる。

つまり、李徴にとっては権力にせよ、文名にせよ、いずれを選択しようとも長安での成功こそが社会での成功なのだと深く執着している。しかし、李徴は政治社会で苦闘した結果、心身ともに壊滅してしまった。

不遇者の逃げ道

李徴が公用で汝水のほとりに宿った時、戸外で自分を呼ぶ声を聞き、それを追って闇の中へと駆け出す。そして気がつくと、李徴の外形は虎になっていた。李徴にこの大きな転機をもたらしたのは官の命令ではなく不可思議な声であった。

李徴を呼んだ声は、前述したように、たしかに李徴自身の内面の声であった。李徴の長安での成功への欲望はきわめて強かった。しかし幾度も重なる李徴の失意を考えると、長安での出世に憧れる一方、李徴が無意識の内長安をはじめとする権力社会と縁を切りたくなっていたとも考えられる。

 つまり李徴を呼んだ声とは、権力社会で疲弊しきった李徴が、そこから脱出しようとする、悲鳴にも近い自らの無意識の内面の声であった。

李徴が変身する虎とは権力支配の世界からの脱却の象徴である。

また中島敦は李徴の変身を「発狂した」と述べているが、実のところ李徴は「発狂」などしてはいない。李徴自身も「即席の詩」において自らを「偶因狂疾成殊類」としているが、李徴は外形が虎になった後にも、強烈な絶望に陥る一方で冷静な自己省察を繰り返しているからである。李徴にとっての「発狂」とは権力社会から切り離されることであった。そして李徴の変身は権力支配による競争社会からの脱出を無意識に希求する内面の悲鳴に従ったものである。

権力社会からの脱出、それが李徴の変身の理由である。

しかし権力の世界の緊縛から逃れたはずの李徴は「何故こんな事になつたのだらう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取つて、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。」[9]と言いながらも、自分の運命を分析しようとする。そもそも運命というものは分析できないものである。だが李徴はそれを執拗に繰り返している。そして李徴は虎になった理由を「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」や「飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけている」ことに求めている。

このように己の運命を分析し納得しようとするところに、まさしく「知識人の通弊」がめみせている。

李徴の告白と頼み

李徴は、袁傪に向かって言う。「今、はからずも故人に遇うことを得て、愧赧の念をも忘れるほどに懐かしい。どうか、ほんのしばらくでいいから、わが醜悪な今の外形を厭わず、かって君の友李徴であったこの自分と話を交してくれないだろうか」[10]と。その袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少なかった李徴にとっては、最も親しい友であった。その理由として、作者は「温和な袁傪の性格が、峻蛸な李徴の性情と衝突しなかったため」と書いている。しかし、秀才であり、温和であるからといって、この役人が「俗悪な大官」や「鈍物として歯牙にもかけなかったその連中」と異なるとは限らない。作者はその証拠となるものを一切挙げていない。とすれば、李徴が袁傪に認める「友」の条件は、衝突しなかった温和な性格以外のものではないであろう。

つまり、袁傪は俗悪な大官の一員であるにもかかわらず、「山月記」という作品に必要な成功者の代表、李徴の語りの聞き手、李徴の理解者という役割を一身に背負って登場したのである。それは作家中島敦の意図的な設定なのである。

言い換えれば、作者が李徴の話し相手、理解者、詩作の鑑賞者、権力社会との最後の餞別人として、袁傪を設定した。

李徴は袁傪を相手に自己を語り、詩の伝録や妻子のことを依頼する。妻子のことを依頼するのはよい。だが、詩の伝録についてはどうか。

袁傪に再会した外形が虎になった李徴は、すでに文字を書くことができない。しかし本当の虎になりつつあっても、李徴は「一日の中に必ず数時間は、人間の心が還つて来る。そういう時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雑な思考にも堪へ得るし、経書の章句を誦んずることも出来る。」[11]と言う。のみならずさらに李徴は「己の中の人間の心がすつかり消えて了へば、恐らく、その方が、己はしあはせになれるだらう。だのに、己の中の人間は、その事を、此の上なく恐しく感じているのだ」[12]と言う。李徴は人間の世界から離れても、人語を通じて詩作に執着している。李徴にとっての人語は人間社会との紐帯である。李徴は社会との紐帯を完全に失えば幸福だと言いながら、それを失うことの恐怖を自覚しているのである。

李徴の即席の詩を見てみよう。

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